『辞書になった男』の主題は、『新明解』第四版に書かれた「時点」の作例だと思われます。(以下、太字はすべて、稿者の付けたものです。ご了解下さい。)

 じてん【時点】 「一月九日の時点では、その事実は判明していなかった」(『新明解』四版)

 この山田忠雄の作例に注目し、この「物語」は、進行するのですが、作者に私は質問しました。

 「作例中の『その事実』とは何か?」と。

 答えは簡単にメールできました。

 ーここから引用ー

 「一月九日」は、山田先生にとって、二〇代から辞書編纂の道を共に歩んできたケンボー先生との間に、その後修復不可能な決定的な亀裂を生じた日であった。
 ケンボー先生は、序文に「事故有り」と書かれていることも、山田忠雄が『新明解』の編修主幹と記されていることも知らずに、あの「一月九日」を迎えた。(『辞書になった男』214頁より)

 ーここまで引用ー

 『新明解』の初版の序文に、「見坊に事故有りと書かれていたこと、そして、「山田が主幹を代行したこと」
とあったこと、それが「『その事実』の内容だ」というのが作者(佐々木健一)の答えでした。

 私は、この『辞書になった男』が、この点について、十分な資料を集めていることに感心しています。だが、その資料を使っての推論に決定的な誤りがあることを惜しみました。

 以下、その推論の誤りを述べて行きます。

❶ 「見坊に事故有り」については、「人生最大の憤怒」と題しての、その日の見坊家の様子など、数頁にわたって書かれていますが、結論は、「事故」という言葉についての見坊豪紀と山田忠雄の意味・理解の違いということで片付けられます。

 ○見坊豪紀は、「俺は事故なんかにあってないぞ。大病でもしたのか? 俺はピンピンしてるぞ。こういう書き方はない」と怒ります。(同書193頁)

 ○山田忠雄は、「『事故』とは、「その物事の実施・実現を妨げる都合の悪い事情」であるとうそぶきます( 『新明解』初版 「事故」の語釈)

 この1972年当時、もっとも権威を持っていた辞書は、恐らく、『広辞苑』第二版(1969年刊行)でした。その『広辞苑』の「事故」の語釈はこうなっていました。

 じこ【事故】 ①事件。出来ごと。また、支障。②事柄の理由。事のゆえ。

 「事故」という語に「支障=さしつかえ」という意味があることを、ワードハンターの見坊豪紀が知らないはずがありません。彼が、「事故」とは「交通事故」などの「事件」ということだけを意味すると考えていたはずがありません。

 見坊豪紀は、なるほど、一度は怒ったかもしれませんが、すぐ、自分の誤りだと認めたのではありませんか。

❷ 山田忠雄が「編修主幹」をつとめたことに見坊豪紀が怒ったという点について、次のような資料が『辞書になった男』に載っています。

 ーここから引用ー

 自分を辞書の世界に導くきっかけを作った恩師・金田一京助が亡くなった時の葬儀で、ケンボー先生が自らしたためた弔辞だ。
 金田一京助が亡くなったのは、昭和四六(一九七一)年一一月一四日。山田先生による『新明解』初版が刊行されるわずか二ヵ月前のことだった。(中略)

 弔辞
 (中略)
 先生が全責任をとって最後の一行までご校閲下さいました『明解国語辞典』が、さいわいに好評をもって世に迎えられ、戦後のある時期には市場を独占し、またその後の小型国語辞書のモデルともなりましたことは、先生のお陰をこうむっているところでございますが、『明解国語辞典』はこのたび山田忠雄君が中心となり、真に画期的な小型辞書として生まれ変わろうとしております
 (後略) (『辞書になった男』297頁より) 

 ーここまで引用ー

 あの、1972年1月9日の2ヵ月前に、すでに、見坊豪紀は、山田忠雄が中心となって、新しい辞書が出来ることを知っていたわけです。その同じ人間が、「山田が主幹を代行したこと」という序文に怒ることがありましょうか。

❸ 私は、以上を、反論の根拠とするわけですが、加えて、この『新明解』第二版(1949年刊行)では、初版とまったく同じ序文が書かれるわけです。いくら山田忠雄が厚顔であろうと、誤ったと指摘を受けた序文をそのまま使うはずがありません。

 すなわち、この初版の序文についての誤っているという指摘はおそらくなかったはずです。

 では、山田忠雄が『新明解』第四版で、思い出した、「その事実」とは何でしょうか。答えは簡単に思いつきます。三省堂の首脳部がこっそり山田に渡した、「見坊の辞書原稿(カード)」です。それを、『新明解』の「あとがき」で、見坊は知ったのです。