『新明解』初版は、その過激な作例で、受け入れられました。そして、『辞書になった男』はその例をいくつも引用しています。

 そこで、まず、「用例」と「作例」はどう異なるか、高島俊男さんの文章を紹介します。

 ーここから引用ー

 国語辞典でも英語辞典でも何でもそうですが、今の辞書にはみな語義説明が書いてありますね。あれは辞典編纂者が用例から帰納して書くのです。用例、というと、編纂者が作った例文のことと思う人もあるようですが、あれは説明の一部。そうじゃなくて、しかるべき文献に実際に用いられているのが用例です。用例があってはじめて「そういうことばがある」と言える。古いことばは特にそうです。用例がなければ、そういうことばはないのです。――なお支那の伝統的な辞書は、たしかな用例のみをかかげ、語義説明はありません。それが本当の「辞典」というものですね。(『お言葉ですが……』巻一より)

 ーここまで引用ー

 そこで、私は、「用例」と「作例」を区別して考えることにいたします。とすると、『新明解』は、初版から「作例」だらけということになるわけですが、そこに、編纂者山田忠雄の秘密を見るという本は何冊も出版されました。『辞書になった男』もその一冊ですが、今日は、その中に取り上げられた、「実に」という言葉の、「作例と用例」を探ってみます。

❶ じつに【実に】 (副) 本当に。[「他に比較するものが無い程度に」「形容のしようが無い・(がまん出来ない)程度に」「いかなる意味においても」の意を経て、「実際に・全く・いやに」などと言いかえられることが多い]「助手の職にあること実に十七年[=驚くべきことには十七年の長きにわたった。がまんさせる方もさせる方だが、がまんする方もする方だ、という感慨が含まれている]」(初版=1972~三版=1981)

 これは、『新明解』の初版から三版まで載った山田忠雄の述懐そのものだそうです。見坊豪紀の「助手」として、十七年間の苦しい感情がにじみ出ている作例だと『辞書になった男』(181頁)は書きます。

❷ じつに【実に】 (副) ㊀それが全く疑う余地の無い事実であると、はっきり断定することを表わす。「この良友を失うのは実に自分に取って大なる不幸であるとまで云(い)った」 ㊁(略)

 ところが、第四版(1989)から、このように作例は変更されます。これについて、『辞書になった男』は次のように書きます。長い引用、申し訳ございません。

 ーここから引用ー

 用例は、〝助手〟から〝良友〟を失うことの悲しみへと書きかえられていた。(同書266頁)(以下略)
 山田先生は、ケンボー先生のことを、本当はどう思っていたのだろうか。
 実際、その真意を計りかねることもあった。
 例えば、『新明解』第三版までは、「助手の職にあること実に十七年」という恨み節が書かれていた【実に】の用例が、第四版では、「この良友を失うのは実に自分に取って大なる不幸であるとまで云った」と、夏目漱石の『坊っちゃん』の一文を引用し、〝良友〟を失うことの悲しみを述べる用例へと書き変えられていたが、実はこの一文は、出典の『坊っちゃん』の中では、悪意や皮肉を込めた台詞として使われていたものだった。
 この〝良友〟の一文は、英語教師の「うらなり君」を左遷した張本人である悪役・教頭の「赤シャツ」が送別会の席で述べた台詞だった。

 ことに赤シャツに至って三人のうちで一番うらなり君をほめた。この良友を失うのは実に自分にとって大なる不幸であるとまで云った。しかもそのいい方がいかにも、もっともらしくって、例のやさしい声を一層やさしくして、述べ立てるのだから、始めて聞いたものは、誰でもきっとだまされるに極(きま)ってる。(夏目漱石著『坊っちゃん』より)

 夏目漱石の『坊っちゃん』に登場する一文、
 「この良友を失うのは実に自分にとって大なる不幸であるとまで云った」
は、まさに上辺だけの、本心では悪意や皮肉が込められた人を騙す「ことば」だった。
 しかし、これをもって山田先生も悪意や皮肉を込めて、この文を用例に掲げたと考えるのは、いささか早計すぎるだろう。
 なぜなら、山田先生の生涯変わらぬ言語観が、
 「言葉とは不自由な伝達手段である」
というものだったからだ。
 同じ「ことば」であっても、文脈や状況によって〝意味〟は簡単に変わってしまう。
 そうした不自由な伝達手段である「ことば」というものを、我々、人間は使って生きていかなければならない。それが、人間の宿命だと知る山田先生が載せた用例なのだ。(以下略)(同書313~314頁)

 ーここまで引用ー

 長い引用で申し訳ございません。筆者(佐々木健一)は、この第四版の「実に」の用例(作例ではありません)を、「山田先生の言語観に基づくもの」と擁護していますが、では、第五版では、その用例はどうなったか、ぜひ御覧下さい。

 第四版を刊行(1989)後、1996年山田忠雄は死去、『新明解』第五版は1997(平成9)年12月刊行されます。

❸ じつに【実に】(副) ㊀それが全く疑う余地の無い事実であると、はっきり断定することを表わす。「この良友を失うのは自分にとって実に大なる不幸である」(以下略)

 「とまで云った」が❷の用例から見事に消えています。まず、この点で、この例文はもう「用例」とは言えないでしょう。「作例」に変わりました。
 では、はたして、誰が、この変改を行ったかということですが、常識的には第五版の編纂者でしょう。第四版のあまりにも露骨な、悪意・皮肉に満ちた、山田の「用例」を、改変して、「作例」したにちがいありません。 ついでに言えば、この『辞書になった男』の作者佐々木健一はこの「とまで云った」という言葉が、第五版でカットされたことに気付いていなかったのでしょうか。そんなはずがありません。ここにも、この本の詐術がうかがわれると私は考えます。作者はわざと触れないのです。

❹ 『新明解』第六版から第七版にかけて、また「実に」の「作例」は変わります。

 じつに【実に】(副) それがもはや疑う余地の無いものであるという思いを込めて、断定したり 強調したり する様子。「君が辞めるのは実に残念だ/彼は実に愉快なやつだ/辞書の完成に至るまで、実に半世紀に近い年月を要した」

 最後の太字も私が施しましたが、山田先生、死してなお、「辞書の完成に至るまで、実に半世紀に近い年月を要した」などという作例を、その辞書に書く編纂者の神経に驚くばかりです。「誰の、いつからの辞書編纂の年月」なのでしょうか。