十二月二十日(土)の朝刊は大きく「STAP存在否定」と報じました。そして、本文中に「捏造(ねつぞう=ルビ)」が私の知る限り五カ所も書かれました。
理系音痴の私には、その「捏造」がどうなされたかさっぱり分かりません。ただ、こんなことを言うのかなと思い当たることはありました。
ねつぞう【捏造】 (「ねつ」は「捏」の慣用音) 事実でないことを事実のようにこしらえていうこと。ないことをあるようにいつわってつくりあげること。芥川龍之介『首が落ちた話』(用例略) 『日本国語大辞典』より
文藝春秋社刊『辞書になった男』に、まったく「捏造」だと私が考える例があります。以下、これを紹介します。
ご承知のように、この本は、見坊豪紀と、山田忠雄という二人の辞書編纂者が、ある日を境に袂を分かつということをドキュメンタリー風にテレビで放映、それを本にし、本年度の日本エッセイスト大賞を受賞したという代物ですが、私は、その本に、「捏造」を見たわけです。
❶ まず、二人が袂を分かったのは、1972(昭和47)年1月9日(実はこの時日には問題があるのですが、それは今は問いません)だということを確認しておきます。
以下、少し長いが、この『辞書になった男』(264頁~265頁)を引用します。
❷ーここから引用ー
関係が断絶したはずの二人は、その後、妙な形で〝つながりの痕跡〟を残していた。
『三国』第三版を出版した翌年、昭和五八(一九八三)年一一月二〇日、六九歳の誕生日を迎えた見坊は一冊の本を出版した。これまでの人生を振り返り、出会ってきた「ことば」や「人」について書き記した『ことば さまざまな出会い』(三省堂刊)だ。
この中で、見坊はかつて『明国』改訂版に載せた思い出深い〝あることば〟について書き記している。それは……。
しゅしょく 【主食】 栄養の中心になるたべもの。米・むぎなどの穀物をさす。
何の変哲もない【主食】ということばだった。
あるとき、あるひとりの国語専門家がそのことに気がつくまでは、「主食」と国語辞書とは無縁であった。
「主食」の不在に気がついたのは畏友山田忠雄君である。(見坊豪紀著 『ことば さまざまな出会い』)
山田忠雄に冠せられた【畏友(いゆう)】の語釈は、『三国』第三版にこう書かれていた。
いゆう 【畏友】 尊敬している友人。
六九歳を迎えた見坊は、かつて決別した山田のことを【畏友】と呼んだ。
ーここまで引用ー
「1983(昭和58)年、69歳の誕生日を迎えた見坊豪紀が、1972(昭和47)年に決別した山田忠雄のことを、その年(1983年)出版した自著『ことば さまざまな出会い』で、「畏友」と書き記したと、『辞書になった男』の著者(佐々木健一)は記しているわけです。
この『辞書になった男』を読んでいる者としては、まったく、この部分に抵抗はありません。一度は決別しながら、この二人は最後はお互い、お互いを認め合ったのだなという納得した気で読みます。
それはそれでいいのですが、その引用原本になっている、1983年10月刊の『ことば さまざまな出会い』
を見たくなるのも、あるいはその性かもしれませんが、それを見ると、その「あとがき」にこうあります。
❸ーここから引用ー
この本(稿者注『ことば さまざまな出会い』)におさめる文章は一九六四年から八三年までに書き、また話したものである。かなり長期にわたっているが、一部を除きすべて再録物である。そこで、年代、数字の表記、その他やむを得ない部分を除き、すべて発表当時のままに印刷することを心がけた。発表当時の状況のもとで理解していただきたいからである。(以下略)
ーここまで引用ー
すなわち、この本の中の文章は、既に過去発表されたものを集めたと明言しているわけです。
では、先の『辞書になった男』に引用された❷の文章は、いつ書かれたものでしょうか。
❹ 本文を見ると、その最後に(日本放送出版協会刊「放送文化」一九七一年六月号』と書かれているではありませんか。
❶で書いたように決別した日は、1972(昭和47)年1月9日だと『辞書になった男』は書きます。
❷で69歳になった見坊は、山田を「畏友」と書いたと『辞書になった男』の筆者は書きます。
❸ ところが、見坊が、山田を「畏友」と書いた文章は、古い文章でした。
❹ 見坊が山田を「畏友」と書いたのは、決別する半年前(1971年6月)のことでした。
『辞書になった男』の筆者(佐々木健一)がこんな簡単な事実(見坊が山田を「畏友」と言ったのは、決別より半年前のことであるという事実)を知らないはずはありません。だから、私は「捏造」だと指弾するのです。
【追記】 私は、現在、「放送文化」1971年6月号を直接確認していません。その意味で、孫引きです。もし、そこに、この文「『主食』の不在に気がついたのは畏友山田忠雄君である。」がないとしたら、万死に値するものとして、このブログで潔く謝るつもりでいます。文藝春秋社の担当や、作者からは今のところ何らの反論もありません。何か、気がつかれた方はぜひご教示下さい。
理系音痴の私には、その「捏造」がどうなされたかさっぱり分かりません。ただ、こんなことを言うのかなと思い当たることはありました。
ねつぞう【捏造】 (「ねつ」は「捏」の慣用音) 事実でないことを事実のようにこしらえていうこと。ないことをあるようにいつわってつくりあげること。芥川龍之介『首が落ちた話』(用例略) 『日本国語大辞典』より
文藝春秋社刊『辞書になった男』に、まったく「捏造」だと私が考える例があります。以下、これを紹介します。
ご承知のように、この本は、見坊豪紀と、山田忠雄という二人の辞書編纂者が、ある日を境に袂を分かつということをドキュメンタリー風にテレビで放映、それを本にし、本年度の日本エッセイスト大賞を受賞したという代物ですが、私は、その本に、「捏造」を見たわけです。
❶ まず、二人が袂を分かったのは、1972(昭和47)年1月9日(実はこの時日には問題があるのですが、それは今は問いません)だということを確認しておきます。
以下、少し長いが、この『辞書になった男』(264頁~265頁)を引用します。
❷ーここから引用ー
関係が断絶したはずの二人は、その後、妙な形で〝つながりの痕跡〟を残していた。
『三国』第三版を出版した翌年、昭和五八(一九八三)年一一月二〇日、六九歳の誕生日を迎えた見坊は一冊の本を出版した。これまでの人生を振り返り、出会ってきた「ことば」や「人」について書き記した『ことば さまざまな出会い』(三省堂刊)だ。
この中で、見坊はかつて『明国』改訂版に載せた思い出深い〝あることば〟について書き記している。それは……。
しゅしょく 【主食】 栄養の中心になるたべもの。米・むぎなどの穀物をさす。
何の変哲もない【主食】ということばだった。
あるとき、あるひとりの国語専門家がそのことに気がつくまでは、「主食」と国語辞書とは無縁であった。
「主食」の不在に気がついたのは畏友山田忠雄君である。(見坊豪紀著 『ことば さまざまな出会い』)
山田忠雄に冠せられた【畏友(いゆう)】の語釈は、『三国』第三版にこう書かれていた。
いゆう 【畏友】 尊敬している友人。
六九歳を迎えた見坊は、かつて決別した山田のことを【畏友】と呼んだ。
ーここまで引用ー
「1983(昭和58)年、69歳の誕生日を迎えた見坊豪紀が、1972(昭和47)年に決別した山田忠雄のことを、その年(1983年)出版した自著『ことば さまざまな出会い』で、「畏友」と書き記したと、『辞書になった男』の著者(佐々木健一)は記しているわけです。
この『辞書になった男』を読んでいる者としては、まったく、この部分に抵抗はありません。一度は決別しながら、この二人は最後はお互い、お互いを認め合ったのだなという納得した気で読みます。
それはそれでいいのですが、その引用原本になっている、1983年10月刊の『ことば さまざまな出会い』
を見たくなるのも、あるいはその性かもしれませんが、それを見ると、その「あとがき」にこうあります。
❸ーここから引用ー
この本(稿者注『ことば さまざまな出会い』)におさめる文章は一九六四年から八三年までに書き、また話したものである。かなり長期にわたっているが、一部を除きすべて再録物である。そこで、年代、数字の表記、その他やむを得ない部分を除き、すべて発表当時のままに印刷することを心がけた。発表当時の状況のもとで理解していただきたいからである。(以下略)
ーここまで引用ー
すなわち、この本の中の文章は、既に過去発表されたものを集めたと明言しているわけです。
では、先の『辞書になった男』に引用された❷の文章は、いつ書かれたものでしょうか。
❹ 本文を見ると、その最後に(日本放送出版協会刊「放送文化」一九七一年六月号』と書かれているではありませんか。
❶で書いたように決別した日は、1972(昭和47)年1月9日だと『辞書になった男』は書きます。
❷で69歳になった見坊は、山田を「畏友」と書いたと『辞書になった男』の筆者は書きます。
❸ ところが、見坊が、山田を「畏友」と書いた文章は、古い文章でした。
❹ 見坊が山田を「畏友」と書いたのは、決別する半年前(1971年6月)のことでした。
『辞書になった男』の筆者(佐々木健一)がこんな簡単な事実(見坊が山田を「畏友」と言ったのは、決別より半年前のことであるという事実)を知らないはずはありません。だから、私は「捏造」だと指弾するのです。
【追記】 私は、現在、「放送文化」1971年6月号を直接確認していません。その意味で、孫引きです。もし、そこに、この文「『主食』の不在に気がついたのは畏友山田忠雄君である。」がないとしたら、万死に値するものとして、このブログで潔く謝るつもりでいます。文藝春秋社の担当や、作者からは今のところ何らの反論もありません。何か、気がつかれた方はぜひご教示下さい。