このブログを書いている隣の机で、小学五年の末孫が宿題をしています。

 通称、「風(かぜ)」君は、本名は「春風(はるかぜ)」。ただ、名は体を必ずしも表さず、「春風駘蕩」の対極、「風」のように走り回っています。

 それが、時に、宿題をしに来、質問をします。「和語と漢語はどう見分けるの?」

 「君の名は?」「はるかぜ」。「それは和語ですか、漢語ですか。」「和語。」

 「では、漢語ではどう言いますか。」「しゅんぷう。」

 こんな会話をしている途中、突然、「あった!」と叫ぶので、「何が?」と訊ねると、「この『お言葉ですが』という本の題名が、この辞書に載っているんだ」と説明してくれました。

 辞書は、先日手に入れた三省堂版『現代新国語辞典』、本は、高島俊男『お言葉ですが…』第11巻。

 おことばーですが 【お言葉ですが】 [目上の]相手に反論したり、意向に逆らう内容の発言をしたりするときに切り出すことば。お言葉を返すようですが。
 
 「新しい辞書はやはり、いいね」と言いながら、「これはどう?」と示してやると、「やあ、何、これ?」と驚きました。
 
 『お言葉ですが…』第11巻176頁の篇名「ぼくはウンコだ」を開いて見せました。

 ここから、本題ですが、なぜ、この『お言葉ですが…』第11巻が私の机上に置かれていたかというと、この本の後に「通巻索引」が付いているからなのです。

 高島俊男『お言葉ですが…』第11巻の「あとがき」は極めて興味あるものです。一部引用します。

 ーここから引用ー

 一九九五年の春に船出した「お言葉ですが…」は、十一年後の二〇〇六年夏にいたるも依然順調航行、書くことはいくらでもあるし、当然まだまだつづくもの、と筆者勝手に楽観していたら、突然中止の通告を受けた。(稿者注ー文藝春秋社からです)
 「読者のみなさまがお手紙をくださっているあいだは大丈夫、やめさせられることはない」と言い言いし、実際そう思っていた。その読者来信はとぎれることなく来ていたのだが……。
 「なんでやめさせられたんだろう?」と以後考えつづけている。
 週刊誌連載の一年分が単行本一冊になる。これは十年十冊つづいた。最後の一年分の一冊を作ってやろう、と連合出版の八尾正博さんが申し出て下さったのでお願いすることにした。
 (中略)
 結局、すっかり八尾さんにおまかせすることにした。餅は餅屋だ。著者はギブ・アップである。
 八尾さんは、全十一冊の通巻索引をつけてくれた。
 これには由来がある。すでに第七冊か八冊くらいの段階から八尾さんは通巻索引を作ってくれ、筆者重宝していた。
 通巻索引は、「あれはどこに書いてあったっけ?」とさがす際に、しごく便利なものである。どうぞ御活用ください。
 (以下略)

 ーここまで引用ー

 そう、この「通巻索引」がこの「お言葉ですが…」を資料として使う場合の「命」なのです。

 私は、本棚には、全10巻の「お言葉ですが…」を並べ、そして、机上にこの第11巻を置いていたわけです。

 見坊豪紀はその著『ことば さまざまな出会い』の「あとがき」に次の一文を書いています。

 「私の本にはことばの索引が必ずつく。資料としても利用していただきたいからである。」

 私は、「日本語に関する本」を探す場合、まず、「索引」がついているかどうかを見ることにしています。

 ところが、例の『辞書になった男』(文藝春秋社版)では、うっかり見過ごしました。あの本には「索引」はついていませんでした。

 せめて、「辞書に立項されたものの索引」がついていたら、私の持っている本のごとく、付箋だらけにはならなかったはずだし、何よりも、筆者が、「これはくどすぎる」と反省したのではないかと残念に思っている次第です。

 さすが、辞書編纂者の書いた本には、索引がついています。

 飯間浩明『三省堂国語辞典のひみつ』、松井栄一『出逢った日本語・50万語』など。