先日のブログで、「某辞書」と書きましたが、質問コメントがあったので、その辞書の名前を明らかにします。

 三省堂版『例解新国語辞典』八版です。

 この辞書、書店で、取り上げ、「気が置けない」の項だけを御覧下さい。(買う必要はありません)

 終わりにある〔注意〕ですが、「①の意味が本来の意味だが、正反対の②の意味で使う人が増えている。」という説明を読んで、その後に続く言葉は「増えているから、使っていい」という風に私は読み取ったわけです。

 仮にも「誤まった用法」を、「増えているから、使っていい」とは、何ごとか、わたくしは、これに反対するため、文化庁の「国語調査」の正答率を問題にしたのです。そして、「増えていない」と強弁しました。

 Pomさんは、誤答率を比較すると、「増えている」ことが確認出来るという主旨の主張を第一になさいました。

 私も、その通り、緩やかか、急にかはともかく、誤った用法が「増えている」ことは間違いないと思っています。ただ、その先にある言葉は、「だから、使っていい」とは思っていません。同じ出版社の『三国』の主張にはこういった感じが強くします。「いつでも、〔俗用〕として立項しますよ」というような。(つけ加えるべきかどうか思案の所ですが、この辞書の②の用例を見ておいてください。(用例 「気の置けない人」。エッと思いました)

 では、「誤った用法」という辞書の指摘は必要かどうかですが、一般的には、「若い者に対する規範を教える意味で大切だとする」見坊豪紀の考え方通りだと思います。しかし、この語「気が置けない」に限っては、効果がありません。「正反対の意味」が、ほとんどすべての辞書で、「誤った用法」と指摘されながら、もし「増えている」ならば、「誤った用法」という表記は必要がないでしょう。「気が置けない」と「気が置ける」とをキチッと並べて正反対の意味を記述することがもっとも大切なこと、そうして、それが、「鑑」としての辞書の役割だと思うわけです。

 三点目は、「気が置ける」・「気の置ける」・「気が置かれる」・「気の置かれる」という表記をどうするかという問題です。

 私は、「気のおけない人」という外山滋比古さんの文章の引用から始めたために、「気の置ける」と書きましたが、ほとんどの辞書は「気が置ける」で立項しています。すなわち「の」と「が」については、どちらでもいいということです。

 「置ける」か、「置かれる」かの問題は少し複雑ですが、私は、次のように考えて、問題にしないという気持ちでした。

 「置ける」と「置かれる」は本来一語か二語かという点で、違いはありますが、意味用法敵には、「自発」の用法と「可能」の用法の混ざった用法です。そして、日本語に多い「自発」の用法が、この場合の二つの語に共通するわけで、それは、また、ある文法学者のいう「自発=自然可能」と説明することが出来ます。

 すなわち、「気が置ける」と「気が置かれる」は、「ヒトリデニ(さまざまな配慮=心)を置く必要がある」あるいは、「ヒトリデニ(さまざまな配慮=心)を置いてしまう」という意味で同じものと考えてもかまわないと理解しています。だから、「気が置かれない」・「気が置けない」は、どちらで立項してもかまわないと思っています。

 辞書によっては、この点に神経質になり、この「気の置けない」を「置く」の中・立項としているものもありますが、この点は「気」の中・立項として、処理すればいいと私は思っています。

 言葉は動くものです。しかし、それを野放図に認めては言葉の役割を果たせません。個個の語の、「鏡」と、「鑑」としての役割を、確かな目で見つめ、それを「辞書批判」などで明らかにすることが、私たちに出来るたった1つのことかと、今、そっと考えています。