高校入試のオリジナルの問題を数百題も作りました。その内、最も印象に残っているのは、原文は「デューク」ー江国香織でした。二年後の2001年のセンター試験「国語Ⅰ」に出題された時は、「やったァ」でした。

 それはともかく、先日のブログを書きながら、外山滋比古の「気のおけない人」の文章を、高校の入試問題に作ったことを思い出し、棚をひっくり返し、やっと見つけました。

 あるとき某紙に寄稿した文章の中で、
 「気のおけない人と、とりとめもない話をしながら、うまいものを食べるほど楽しいことはない」と書いたところ、関西の未知の読者からはがきが来た。ちゃんと住所氏名も書いてある。
 「あなたは、気のおけない、を気安い、の意味につかっていられるがこれは、気のおける、でなくてはいけないでしょう。言葉のことに関心をもっておられるようだから、注意される方がよいでしょう」
という文面である。ことばはていねいだが、調子はかなり高飛車で、先生が生徒をさとすようにウムを言わせない、といった調子がある。だいたい、人間は、自分と違ったことばを使っていると、すぐ、相手が誤っていると考えたい習性をもっている。この人もそうなのであろう。私は何ごとによらず平和を好む。たとえ、ことばの上であっても争うことは好まない。論争など考えただけでも、ぞっとする人間である。
 そういう人間にしても、このはがきは反発させるものをもっている。堂々と氏名住所も明記されていることだ。よし、というので、返事を書いた。
「何か勘違いをなさっているようですが、気のおけない人というのが、気安くつき合えるという意味です。〝気のおける〟というような日本語はまだ公認されておりません。国語辞書をごらんになればわかります。だいたい、人の間違いをお叱りになるのでしたら、たとえ自信がおありになっても念のためということがあります。辞書をひいてからにしていただきたいものです。暴言失礼」
 いまにして思うと、ずいぶんいやなことを書いたものだと、ひとりでも顔が赤くなるような後悔におそわれる。しかし、そのときは、はがきを書いたあとでもなお、むしゃくしゃしていた。(中略)
 遠慮のいらない、の意味の気のおけないに、安心のならない、という新しい用法が発生したことをはじめて報告したのは、見坊豪紀氏である。私はもちろん、それを読んで知っていたが、まだ、それはごく一部の俗語であろうと思っていた。まさか、胸をはって、こちらの方が正しいのだ、と主張する人が出てこようとは夢にも思っていなかった。それを頭ごなしに叱られて、ぼっくりするやら、腹を立てるやらしたのである。(以下略)
(1979・『ことわざの論理』外山滋比古・「情けは人のためならず」17頁~19頁)

 長い引用で申し訳ございませんが、どうしても必要だと思いましたのでお許し下さい。

 この中で、外山滋比古氏は次の三点を述べています。

❶ 「気の置けない」は「気安い」という意味であること

❷ 「気の置ける」というような日本語はまだ公認されず、国語辞書にも載っていない

❸ 「気の置けない」に、「気安くない」、という用法があることをはじめて報告したのは見坊豪紀氏である

 この内、❶と❸は問題ありません。特に、❸は、1969・7・16の読売新聞朝刊「ことばは美しい」というコラムで見坊豪紀は書いています。この文章は10年後です。

 問題になるのは❷です。見坊豪紀は同じコラムで、「『大日本国語辞典』という権威ある大辞書に、『気がおける』は『何となく打ちとけずあり。憚(はばか)るところあり。遠慮する心もちあり』と書いてある」と指摘しています。

 また、私の持っている『字海』1952年版の『気』の中稿に、
 【気が置ける】はばかって遠慮がちになる。何となく打ちとけられない。
とちゃんと出て参ります。

 外山滋比古氏が、なぜ、この「気の置ける」が「日本語として公認されておらず、国語辞書にも立項されていない」と書いたのか、まったくわかりませんが、こういった形で、『気が置ける』という語が、無視されていったということだけをぜひここに書いておきます。これは実は大変なことだと私は考えるのです。

 以下、明日、この続きを書きます。