一昨日書いた、見坊先生の「誤り」を「辞書に書く」という一つの方向は、『三国』第三版(1982)で示されました。この影響がどれほど大きかったか、それぞれの辞書の初版からの表記を比較すると、明らかです。

 『広辞苑』は、第三版(1985)まで、昨日の項目すべてに、○(「誤って」という表記なし)でした。

 『大辞林』は、初版(1959年頃から準備、1988年刊行)、すべて○でした。

 『新明解』は、二版(1981)まで、すべて○でした。

 見坊豪紀が、『三国』第三版で提起したことがいかに大きいことだったかが、この視点から見るとよくわかります。(『辞書になった男』を書き直すなら、この点を是非強調してください)

 話変わって、『三国』の一つの「◎」である、「号泣」について、もう少し書きます。

 この「号泣」については、既にこのブログで詳しく書いていますので、それを読んでいただく(ヤフー画面で「無理題」を検索、そして、「無理題に遊ぶ」をクリック、左下の検索項目に、「小林麻耶」と入力して下さい)として、少し異なる視点からまとめておきます。

 ❶ 『三国』三版(1982) ○表記です
 号泣=大声で泣くこと。

 ❷ 『三国』六版(2008) ×表記です
 号泣=[号=さけぶ] ① 大声で泣くこと。 ② [あやまって]大いになみだを流すこと。

 ❸ 『三国』七版(2014) ◎表記です
 号泣=[号=さけぶ] ①大声で泣くこと。またその声。「―がひびく」 ②[俗]大いになみだを流すこと。「静かに―する」

 では、同じ出版社の『新明解』はどう書いているでしょうか。

 ❶ 『新明解』初版(1972)
 号泣 ひどい悲しみなどのために、大声で泣くこと。

 ❷ 『新明解』三版(1981)
 号泣 (ふだんは泣かない大の男が)天にもとどけとばかり悲しみ泣くこと。

 ❸ 『新明解』七版(2013)
 号泣 (涙を見せたことのないような一人前の男性が)感きわまって大声を上げて泣くこと。

 ついでに、「感きわまる」を同じ辞書で見ると、

 感きわまる(=感激の余り、思わず、うれし泣きをする状態になる)

 アラ探しはもう止めますが、『三国』の(号=さけぶ)の注も、「静かに号泣する」という用例を認めれば、まったく余分な説明だし、『新明解』においては、「小林麻耶 ブログ批判に号泣」というテレビのテロップを見た人は、「えっ、小林麻耶は男?」と思ったり、某兵庫県議のテレビでの「号泣」は、「感激のあまり、うれし泣きをしているんだ」と誤解したり、まったく、辞書はどうなっているのだろうかと心配になります。

 何十年もかけて、最高の編集者と自認する人たちが、この程度のことかと、一国語教師は思わず歎くわけです。

 「『重箱の隅を楊枝でつつく』ということばがあるでしょう。もういい加減にしなさい」という老妻の言葉が一番こたえている毎日です。