国語世論調査が、新聞の、9月25日朝刊で発表され、驚きました。

 見出しは「世間ずれ」誤用1.7倍(『毎日新聞』)です。

 1.7倍というのは、前回(2004年調査)と比べての値ですが、それにしても、すさまじい、国語教育は何をしているのかと問われそうです。

 「世間ずれ」については、このブログでも、「号泣」などと並べて、「辞書」の善し悪しを論じたことがありましたが、今日は、特に、「世間ずれ」だけを取り上げます。

 まず、『三国』の編集者、飯間浩明さんの言葉を紹介します。

 「せけん ずれ」[世間擦れ](名・自サ)①実社会で苦労してわるがしこくなること。 ②[あやまって]世間の動きとずれていること。
 
 つまり、もとは「すれる(=こすれる)こと」だったのが、「ずれること」だと解されるようになったのです。
 「世間ずれ」の意味が変わっていることは、それ以前にも指摘はあったものの、確証がありませんでした。見坊豪紀は、数万ページの文章を何年も読みあさった末、ついに1974年の春、週刊誌で(世間ずれした[=今では古い]テクニック)という確実な例を見つけました。新用法を発見したうれしさを、見坊は「証拠おさえたァ、という感じ」と表現しています(『ことばのくずかご』筑摩書房)。
 現代では、若い世代のみならず、上の世代も含めた多くの人が「世間ずれ」を新しい意味で使っています。平成16(2004)年度「国語に関する世論調査」の調査項目になりました。(『三省堂国語辞典の秘密』より)

 「世間ずれ」の意味はそれまで、①のみでした。ところが、見坊豪紀は『三国』三版(1982)から、「あやまって」という注はつけてですが、この②の意味をつけ加えます。そして、『三国』はそれ以後、現在まで、この②の意味を付けてきました。今年の調査で、1.7倍になったというのは、2004年度の調査と比べてのことです。

 私は、今、その当時の見坊豪紀の、新用例を発見した喜び、「やったァ」という感情をよく理解しているつもりです。しかし、その当時(今でもですが)、誤った用法を発見して、喜んだその見坊豪紀の気持ちはどう理解すべきか、悩んでいます。おそらく、見坊豪紀は、将来、この②の意味用法が、①の用法を越えるに違いないと予感したのでしょう。それが「やったァ」ですがそれでいいのかどうか。

 「鏡」としての「辞書」としては、それでいいでしょう。しかし、「鑑」としての役割はどう考えたらいいのでしょうか。

 大修館版『明鏡』初版(2002)は、①のみしか挙げていません。ところが、二版では、「[注意]世間からずれていることの意で使うのは誤り」と明確に書いています。「鑑」としての「辞書」の役割を自覚していると言うことでしょう。ところが、実際は「世の中の考えから外れている」(55.2%)です。

 「言葉は日々動くよ」という見坊豪紀の予言をまざまざと見る感じ、「正論バカ」にはなかなか納得できない時代ということでしょうか。

【追記】 この二辞書以外について、詳しく検討していません。今のところ、②の意味「世の中の考えからずれていること」を他辞書では発見していないのですが、新しい情報があったら教えて下さい。