俳句の解釈についての、老妻との会話を先日(2014・2・12)このブログで書きました。二つの解釈が可能かどうかという会話でした。問題になった句は、

   窓開けて鶯(うぐいす)の声大きくす   高山睦子


 ところが、2月16日の『毎日新聞』朝刊、「季語刻々」の欄に次のような句と評が掲載されました。


 「  夫(つま)愛すはうれん草の紅愛す   岡本眸(ひとみ)

 夫を愛していいる、ホウレン草の根の紅色も愛している、という句。夫とホウレン草の根を同格にしたところが愉快。夫はホウレン草の赤い根みたいなものなのだ。

 別の読み方もある。夫はホウレン草の根の紅色が好き、それを自分も愛するという読み。これは夫唱婦随。作者は1928年生まれ、本紙『毎日俳壇』の選者だった。」


 筆者、坪内稔典さんによって、二つの解釈が示されました。


 そこで、私の老妻に対しての解説。


 ① 「夫を愛していいる、ホウレン草の根の紅色も愛している、という句」は、二つに分かれる。だから、『愛す』は終止形、初句で切れる。


 ② 「夫はホウレン草の根の紅色が好き、それを自分も愛するという読み」の解釈に従うと、『愛す』は連体形。そこで切れず、『夫の愛するはうれん草』と続く。


 筆者、坪内稔典さんは、この二つの解釈を、紹介していますが、どちらがいいかを一言も書いていません。あるいは、「『俳句』というものは、どう読んでもいいのだよ」というメッセージでしょうか。


 しかし、素人の読者は、どちらがいいか多少気になるところです。


 そこで、私は、勝手に解説をいたしました。


 まず、語法的に。


 A 「夫(つま)」、「はうれん草」と表記されている限り、この句は「歴史的仮名遣い」であり、文語文法の規範に従っていると考える。


 B 「愛す」は文語文法ではサ変動詞、「せ・し・す・する・すれ・せよ」と活用し、「愛す」は「終止形」で、連体形は「愛する」でなくてはならない。


 A・Bから、この句の解釈は①と考えられる(「愛す」で切れるという考え方)。


 ただ、納得できないとする考えもある。それは②の解釈だ。


 ②の解釈について、


 「語法的」には、口語文法に従って、「愛す」という語が連体形に使われても不思議はない。


 一気呵成に、流れるように読まれたと考えることは可能なのではないか。


 この②の解釈について、多少の付け加えをします。


 それは、「係り受け」がそのまま順序よくなされるという考え方です。

 「夫(が)⇒愛す⇒はうれん草の⇒紅(を)⇒愛す」という形です。


 例の、有名な、そして今の季節にもっとも適切か、万葉集の歌があります。

 石(いは)走る垂水の上のさわらびの萌え出づる春になりにけるかも(万葉集・志貴皇子)

 ⇒がそのまま流れるように次の句に続き、例外がありません。


 以上が私の老妻に対する解説です。


 さて、最初の句、「夫(つま)愛すはうれん草の紅愛す  岡本眸(ひとみ)」は、俳句として、どちらの解釈が正しいのでしょうか。


 勿論、私は、①説です。②は理に勝ちすぎていると前のブログで書きました。短歌と俳句は長さが異なります。短歌の流麗さを俳句に求めることは無理だろうと思っています。


 以下独り言。


 結論が出ないというのでは、この問題は「無理題」だ。


 訳がわからないものはみな「無理題」だ。


 「無理題に遊ぶ」とは、なんと素晴らしいテーマはないか。