音節数が少なくなるのは、表記における「仮名遣い」に

おいてより多くの音節を使い分ける必要がなく、「効率的」

になることは間違いありません。ただ、日本語では、あま

りにも単純な発音のために、同音異義語が多くなり、漢字

に依存せざるを得ないということはすでにこのブログでも

再々指摘したことです。


 また『古語と現代語のあいだ』の話ですが、その著者で

ある教科書主任調査官は、「効率主義こそが仮名遣いの

伝統である」と書きながら、漢字の役割についてはほとん

ど触れていません。


 そこで、戦後の漢字制限について、数のことだけを少し

いておきます。

 昭和21(1946)年   1850字

 昭和56(1981)年   1945字

 平成22(2010)年   2136字


 これが常用漢字として認められた数です。少しずつです

が増してます。漢字に対する依存度が高くなっているので

しょうか。


 私は、漢字についてはまったくわかりません。ただ、教科

書などを見るとき、どうして、ここは漢字でないのと思って

常用漢字表をめくってみることがあります。


 この夏、来年度から新しくなる教科書、「現代文B」を9種

類、学校から借りてきて比較する機会を得ました。そこで

気がついたことを二つだけ書いておきます。


 一つは、中島敦の『山月記』の「くさむら」の表記です。


 「残月の光を頼りに林中の草地を通っていったとき、はた

して一匹の猛虎が草むらの中から躍り出た。」(太字は

稿者)


 「残月の光を頼りに林中の草地を通っていったとき、はた

して一匹の猛虎が叢(くさむら)の中から躍り出た。」

(太字は稿者)



 私が持ち帰った教科書は9社です。そして、すべてに『山

月記』は載っていました。そして、2社が「草むら」、7社が

「叢」でした。


 勿論、中島敦の原文は「叢」です。どうしてこのようなこと

が起こるのでしょうか。あるいは、検定ではどうしてこんな

ことをチェックしないのでしょうか。


 「適当に、それぞれの学校の生徒のレベルに応じて教科

書を選定すればいいので、その機会を多く与えているので

す。」という官僚の声も聞こえてくるように思います。


 もう一つ、三島由紀夫の『小説とは何か』を2社が掲載し

ていました。


 この比較はいろいろの問題をもっているので、また後に

考えるとして、その中に、これは2社とも同じですが、「二人

の女の座れる炉の脇を通り行くとて、」という表現がありま

す。この「座れる」は、「三島由紀夫全集」によれば、「坐れ

」とあります。


 この「座」は「社長の座」などという場所、つまり名詞。だか

ら、「座る」などと書くのは論外。「座った」なんで「ザった」だ

よ。小生こんな字を書く人の文章はよまないことにしていま

す。(高島俊男『広辞苑の神話』)


 たしかに、「叢」も「坐」も現在の常用漢字にはありません。

しかし、原文ではそう書いているのです。こういう漢字は大

切にするしかないと思うのですがいかがでしょうか。


【追記】 『山月記』の「叢」はこれまでは6社でした。ところが、

「草むら」としていた1社が、この度の改訂から「叢」に表記

を変えたそうです。私が電話で質問したところ、常用漢字と

は関係なく、現場の声を尊重したためだと説明してくれまし

た。