教え子のM君が、東京大学を卒業した直後遊びに来ま

した。そして、卒業論文の苦労話を話してくれました。


 彼の卒業論文のテーマは「養蚕」から「絹糸の輸出」ま

での歴史だったようです。


 学部四年の秋、彼は卒論を書き上げることが出来ない

で悩んでいたようです。「どうしても、ミッシングリンクで、

後、その間隙を埋める資料が見つからなかったのです。」

 彼はノイローゼのごとくなり、親の暫く旅に出たらという

勧めにより、諏訪湖に遊びに出かけたそうです。そして、

「或日、諏訪図書館で古い新聞記事を見ていて、座談会

の記事を見つけました。座談会の記事など、資料として

は一級とは言えないのですが、私の論文のミッシングリ

ンクをそのまますっぽり埋める資料だったのです。すぐさ

ま大学に帰り、やっと卒業論文を仕上げ、卒業することが

出来ました。」


 彼の、この「ミッシングリンク」の話は私にとって印象

でした。


 「古語と現代語のあいだーミッシングリンクを紐解く」とい

うこの本の題を見、帯で「古語と現代語の断絶の錯覚から

生まれた違和感だらけのミッシングリンクを断ち切る試み」

とあるのを見て、これは私のM君から聞いた、そして理解

している言葉と違うと思いました。


 早速、『日本国語大辞典』に当たりました。初版は立項し

ていませんでした。 第二版に次のようにありました。

 「ミッシングリンク 【名】 失われた環(わ)。生物の進化

・系統において、その存在が予測されるのに未発見のた

めにできている間隙。鎖を構成する環にたとえていう。」


 『広辞苑』(第五版)

 「ミッシングリンク (「失われた環」の意)生物の系統進

化において、現生生物と既知の化石を繋ぐべき未発見の

化石生物、これが発見されると、進化の系列がつながる。」


 白石氏はこう書いています。

「キーワードは『地続き』と『ミッシングリンク』。目指すは、

連続する言葉の変化をたどりながら、わたしたち現代人が

見落としていた繋がりの輪を捜すこと。そして、失った輪を

捜していると、思わぬところで、あってはならない輪、ある

いは違和感を生む輪がみつかることがある。あってはなら

ない輪の存在は、知らず知らずのうちに、私たちの知識と

思考を混乱させる。

 本書は、ささやかであるが、『近代短歌』『擬古文』『仮名

遣い』を題材にして、、古語と現代語のあいだの失われた

輪を繋ぎ、違和感のある輪を断ち切る試みである。」

(『まえがきにかえて』)


 このあと、「序章」で、既に書いた、芥川龍之介の『羅生

門』の「きりぎりす」が現在の「きりぎりす」か、「こおろぎ」

かという話が出て参りますが、白石氏は次のようにしめ

くくります。 「こうなってくると、どこまでも交替学説に付

きまとわれて、泥沼状態、際限なくミッシングリンクが増

殖して、わたしの手におえなくなる。これにどう収拾をつ

けるか。本書で古語と現代語のミッシングリンク探しの

旅をしながら、読者諸氏もこの課題に取り組んでいただ

きたい。」(同19頁)


 私の見解です。

 「ミッシングリンク」は、増殖したり、断ち切ることができ

たりするものではありません。 おそらく、筆者白石氏は

「ミッシングリンク」を「誤れる意見・見解」という風に理解

されているのでしょう。それはそれでかまわないのです

が、時あたかも、NHKが、カタカナ語を多く使いすぎるこ

とによって老人に心理的負担を与えていることを賠償し

ろと話題になっています。だったら、私が常に使っている

「無理題」という日本語に置き換えてみてはどうでしょうか。

  

 「こうなってくると、どこまでも交替学説に付きまとわれ

て、泥沼状態、際限なく『無理題』が増殖して、わたしの手

におえなくなる。これにどう収拾をつけるか。本書で古語

と現代語の『無理題』探しの旅をしながら、読者諸氏もこ

の課題に取り組んでいただきたい。」私は白石氏とほとん

ど意見を同じくしています。ただ一つ、文語体を「新カナ」

で表記することができるという点を除いては。

 この芭蕉や、芥川の「きりぎりす」が、現在の「きりぎり

す」か、「こおろぎ」かということについては、同じように非

常に興味があります。入試問題に出さないでください、こ

れは「無理題」ですよとかねがね考えていました。筆者に

共感。ただ、「ミッシングリンク」とは私は言いません。