昨日、6月19日は太宰治の「桜桃忌」でした。今朝の毎日新聞で報道されているかと注目しましたが、記事として見つけることはできませんでした。


 ネットで、東京新聞の記事に、三鷹、禅林寺での法要が、雨の中多くの人たちの参加によって行われたとあって、例年通りとホッといたしました。


 私は、大学は仙台、昭和29年入学です。太宰が亡くなったのが昭和23年ですから、まだ、その死の余韻が残っていました。文学部の連中の多くが太宰ファン、あるいは太宰教の教徒でした。休みには青森の太宰の実家を見に出かける連中はまわりにいくらもいました。


 これは、本当かどうか分かりませんが、国文科の卒業論文を勝手に選ばせたら、太宰治論ばかりになるので、急遽、卒業論文は江戸時代以前に限るというお触れが出たという話です。


 私は、堀辰雄か、立原道造を書こうかと思っていたので、困ってしまったということは、以前このブログで書いたような気がいたします。結局パスすればいいというだけのまったくつまらない卒業論文になってしまいました。


 話変わって、『尊魚』12号(2007・3・10)に、「加藤典洋『太宰と井伏ーふたつの戦後』批判」 相馬正一 が掲載されています。


 この『尊魚』はその題名の通り、「井伏鱒二」礼賛の小冊子です。だから、先行する井伏批判、例えば猪瀬直樹『ピカレスク』など、まったく認めない編集態度を持っています。この相馬正一論文もそういう色調を認めた上で読み続けました。


 しかし、それにしてもいかがかと思われる主張にいくつかぶっつかりました。その一つを紹介します。


 「昭和二十二年の秋頃から死亡した二十三年の六月まで、太宰が最も警戒し敬遠したのは後見人としての井伏鱒二の存在である。反俗の作家と言われている太宰にも、意外に通俗的で小心な一面があった。生涯を通じて長兄には逆らえなかったし、井伏との約束を反故にしたことでも大きな負い目を感じていた。但し、井伏を目の仇(かたき)にしていたわけではない。

 遺書(?)の下書きに書きなぐられた「井伏さんは悪人です」の一文は、井伏が本当に長兄へ報告するかも知れないと思い込んだ太宰が、監視役の後見人に対して示した精一杯の嫌がらせであったろう。太宰が本当に激怒していたのであれば、「井伏鱒二は悪党だ」と書いたはずである。この場合の<悪人>は、「井伏さんは、弱い私を苛める意地悪い人です」ぐらいのニュアンスである。これに、井伏が太宰の文壇生活を懸念して、「如是我聞」の連載を取り止めてはどうかと助言したことへの反発を加えても、さほど大袈裟にあげつらう問題ではない。」


 私は、太字部分を読んでガッカリしました。どんなに憎んでも、日本語でもって文筆を業とするものが「悪党だ」と書くはずはありません。こんな推論を立てる人の神経を疑います。


 この論文全体に文句を言ってるのではありません。この学者のことばに対する感覚にクレームをつけたくなっているのです。


 しかし、「桜桃忌」の翌日ですが、「太宰治をどうとらえるか」、「井伏鱒二は悪人かどうか」

 「無理題」の種はいたるところにごろごろと転がっていますね。