昨日まで、二回に分けて書いた『森鴎外に詫びる件』は、「鴎外全集を見るたびごとに、私は気になっていけない」(『森鴎外に詫びる件』冒頭)にあるように、当時、鴎外没後の『鴎外全集』の普及版が刊行されている最中でした。鴎外への関心が強くなってきた時期です。その意味でタイミングよくと言えますが、これについて、雑誌『文藝春秋』の御大である菊池寛が、その雑誌『文藝春秋』の「話の屑籠」というコラム記事でクレームをつけます


 この事について、井伏鱒二自身は、こう書いています。

 「この話は、もう二十年ばかり前に、ごく簡単に朝日新聞の学芸欄に書いたことがある(メタ注ー『森鴎外に詫びる件』のこと)。そのときは少し意を尽さないところもあつた上に、書いた事柄そのものにも不良性があった。それを読んだ菊池寛氏は、文藝春秋の「話の屑籠」といふ蘭に、私を咎める寸評を書いた。「いまさら、鴎外に詫びるといふのは、不自然だ。」といふやうな意味の叱言であった。私は中学五年のとき、鴎外をだましたので、気になってゐたから書いたのだが、菊池さんの気性からすると当然厭味らしく見えたのだろう。(1949(昭和24)年6月『鴎外選集月報3 「挿話」』)


 菊池寛はこの文章の発表された前年(昭和23年3月)、既に死去していました。


 話をもとに返します。菊池寛は、昭和6年7月『森鴎外に詫びる件』が朝日新聞紙上に掲載されるとすぐ怒っているということを川端康成に伝え、川端は井伏にそれを伝えるという経緯があって、「話の屑籠」に次のように書きます。


 「井伏鱒二君が、少年時代鴎外博士にウソの手紙をかいたことを時事新報(メタ注朝日新聞の誤)に告白している。少年時代のいたずらはよいが、それを今更告白することが、いけないと思ったので、大いにやっつけてやろうと思っていると、丁度同君から、「仕事部屋」と云う創作集を送ってよこしたのでつい気の毒になって、やっつけることはよすことにした。」(『文藝春秋』昭和6年9月号「話の屑籠」)


 私が、なぜ、こんなエピソードをここに書くかというと、この『森鴎外に詫びる件』が、井伏鱒二という作家の存在を当時の文壇にはじめて明らかにした、いわば作家としての出発点に当たる重要な作品ではないかと思うからです。何しろ当時の文壇の権力者菊池寛に注目されたのですから。


 こうして、文壇の大御所菊池寛に認められ、数年後に直木賞を受賞、文壇の一員に登録された記念すべき作品がこの『森鴎外に詫びる件』であったのではないかと私は推測するわけです。


 ところが、その後、井伏鱒二自身、この中学5年の時の事件をどう回想するか、もう少し、追いかけてゆきます。