先日、「ふくやま文学館」を訪れました。井伏鱒二関係の展示物の間に、一枚のレプリカがありました。


 これが、「悪戯事件」の唯一の物証であるCです。早速、学芸員に、何時どこで公開されたもののレプリカであるか質問しましたが、はかばかしい答えが返ってきませんでした。是非、その原本の所持者である東京大学図書館に質問して欲しいとお願いして帰りましたが、今日まで、何の連絡もありません。


 ここまでの経緯をもう一度簡単に書きます。


 大正6年1月13日、井伏鱒二は、朽木三助というペンネームで、当時大阪毎日新聞に連載中の、森鴎外『伊澤蘭軒』に「史実と違う」という反駁文を送りました。(A)

 鴎外はすぐ、その間違いを指摘した手紙を朽木三助に送りました。(B)

 友人の慫慂もあって、数週の後、井伏鱒二が本名で朽木三助の死を告げたのが(C)の手紙です。

 鴎外は「謹んで、朽木三助氏のご逝去を悼む」という弔文を送ります。(D)


 この間の経緯について、森鴎外は連続して書いていた『伊澤蘭軒』ーその三百三で、明らかにします。


 井伏鱒二は、鴎外の死後(九年後)、「森鴎外氏に詫びる件」として、この間の経緯を公表します。


 以上が、この「悪戯事件」のおおよそであり、その後、菊池寛によって叱責を受けるも、直木賞を受け、井伏鱒二は大作家の道を歩み、その間、何度かこの事件に関して言及するが、いずれが真実か明らかでないというのが現在の状況だと私は考えています。


 私は、昨日まで、(A)と(B)について書きました。


 そして、今日(C)について、レプリカの存在から書き始めています。


 このC(井伏鱒二から森鴎外に宛てた、大正6年3月6日の朽木三助の死を伝える手紙)は、鴎外が『伊澤蘭軒』を書くための資料綴りの中に残されていました。(Aの存在は確認されていません)


 鴎外の死(1922)後、関東大震災(1923)で東京帝国大学の図書館が焼失したことを受け、鴎外の遺族が、鴎外の書籍を1926(大正15)年1月寄贈しますが、その中に含まれていたもので、「鴎外文庫 菅頼系諸家事蹟」として収蔵されています。


 私が、このCの存在を始めて知ったのは、『井伏鱒二全集』第二巻の月報4(1997・2)によってです。その内容を次に書きます。


 「井伏鱒二の森鴎外宛書簡」 山崎一穎

 (前略)

 「井伏が本名で認めた書簡を次に翻刻する。

  窪田
 拝啓伊澤蘭軒の事につき朽木三助氏の依頼により失礼をも顧みず申し上げ候。
 朽木氏は十七日前死去致され候。
 その時、駒込、一月十六日付けの森博士よりの書信を出し小生に求して病気の為めおしめしの半紙形の紙に書きて事実を博士に申し上ぐる事不可能につき汝に依頼すと申され候小生は事実をばよく知り申さず候へども地方にては阿部家に出入りしたる医者伊澤家の者が正弘公を弑したりと噂し居り申し候。但し現今は故老のうすら覚えくらひの事に候。又正弘公病気の時地方医窪田老先生―窪田二郎氏にして其の家は阪谷芳郎博士の親類にこれあり候―をめし抱へんとせしも先生は農民を救はん目的にして確く其の栄達を度外に置き、辞され申し候、と小生の祖父申し居り候。小生等も毎年盆時には其の墓に参拝いたし申し候。
朽木氏の申されし時代の誤られ居りしは博士の書信によりて明らかになり申し候而して柏軒の家はもと福山最善寺町の西通り南角にありし由に候今はシンガーミシン女学校とか貿易輸出品製造所とかの様なものの建物これあり候取り急ぎ乱筆に認め申し候段、お許し下され候。
                                      謹言
 三月六日
  広島県福山中学校  井伏満寿二拝。
 森林太郎様」

  
 山崎氏によれば、この書簡は1984・5・23写真撮影の許可を東京大学図書館から貰い、この書簡の内容を報告したのは1996・9・28だそうです。


 太平洋戦争の災禍(福山空襲)により、B・Dの書簡既になく、鴎外家にAも残っていないとすれば、このCはこの事件のたった一つの物証です。


 今日、朝から、鴎外文庫をネットで検索、「菅頼系諸家事蹟(標準画像)|鴎外文庫書入本画像データベース」を選び、その「059」をクリックしたところ、この手紙の現物を映像で見ることが出来ました。背筋をスーと何かが走るような言いようのない感動を覚えました。


 このCについての感想は明日書きます。