挿入句というのは、登場人物の間にはさんで、話し手(筆者)が感想を述べるのが基本です。例えば、『徒然草』<七三>、


 世に語り伝ふること、まことはあいなきにや、多くは皆虚言(そらごと)なり。


 この文の、「まことはあいなきにや、(真実ノコトハオモシロクナイノデアロウカ)」を挿入句とします。形の上では、「~にや(あらむ)、~にか(あらむ)」となる場合が多いと言われます。


 そこで、『徒然草』<二三四段>を考えます。


 人のものを問ひたるに、知らずしもあらじ、ありのままに言はんはをこがましとにや、心惑はすやうに返事したる、よからぬ事なり。知りたる事も、なほさだかにと思ひてや問ふらん。又、まことに知らぬ人もなどかなからん。うららかに言ひ聞かせたらんは、おとなしく聞えなまし。


【口訳】 人が何かものを尋ねているときに、必ずしも知らないわけでもあるまい、ありのままに言うのは、ばからしい、と思うのであろうか、聞く人の心をまよわせるように返事をしているのは、よくないことである。知っていることも、もってはっきり知りたいと思って、尋ねるのかもしれない。また、本当に知らない人も、どうしてないことがあろうか。はっきりと説明してやるようであれば、穏当に思われるに違いないであろう。(『新全集』二六一頁)


 内容は兼好法師の訓話。処世術の教訓ですが、問題は、太字部分の解釈です。 


 【検証】 この『新全集』は、太字部分、「知らずしもあらじ…をこがましとにや」を挿入句と考えます。だから、「甲が、乙に、ものを尋ねている際、『甲は(答えを)必ずしも知らないわけでもあるまい、ありのままにいうのは、ばからしい』と乙は思うのであろうか、と話し手が注をつけていると解釈します。これが、『集成』その他ほとんどの解釈です。


 ところが、『新大系』は「知らずしもあらじ」に注して、「挿入句」とします。

 この場合の解釈はこうなります。


 「甲が、乙に、ものを尋ねている際、『乙は(答えを)必ずしも知らないわけでもあるまいに、乙は(甲に)ありのままにいうのは、ばからしいと思うのであろうか』、と話し手が注をつけていると解釈します。


 「知らずあらじ」の主語を「尋ねた人」と考えるか、「尋ねられた人」と考えるかの

違いです。この部分については、記述で説明させる場合がほとんどと思われますが、どちらを正解にするかは問題でしょう。


 と、ここまで書いて、老妻の忠告を思い出しました。


 「どうせ、誰も読まない文章なんかやめたらどうですか。」


 まったく、その通りで、悩んでいます。こんなことを続けていいのかと。