入試で取り上げられる古文の原文は、ある意味で滅茶苦茶、校訂者によってまったく異なるので、何が正しいかわからない誤読だらけです。その一例をあげます。


○ 十一月もおなじごとにて、二十日になりにければ、今日見えたりし人、そのままに二十余日あとをたちたり。文のみぞ、ふたたびばかり見えける。かうのみ胸やすからねど、思ひ尽きにたれば、心よわきここちして、ともかくもおぼえで、「四日ばかりの物忌しきりつつなむ。ただいま今日だにとぞ思ふ」など、あやしきまでこまかなり。はての月の十六日ばかりなり。 (『新全集』二六六頁)

 『新全集頭注』 「…おぼえで」は下へつながりにくく、「おぼえであるに」といふべきところ。

【口訳】十一月も同じような状態で、二十日になってしまったが、その日に姿を見せたあの人は、そのまま二十日余りも足が途絶えている。ただ手紙ばかりが二度ほどよこされた。こんなふうに心穏やかでない状態ばかりが続くが、ありとあらゆるつらい思いをし尽してきたので、すっかり気力もなくなった感じでただぼんやりしていた時、「四日ほどの物忌が次々と重なってね。すぐに、今日なりと、と思っている。」などと、不思議なくらいにこまごまとした手紙がある。年の果ての月の十六日ごろのことである。


 『集成頭注』 「…おぼえで」は、「おぼえであるに」の意。(『集成』一八〇頁)


 一方、こんな説明もあります。

 ○ 十一月もおなじごとにて、廿日になりにければ、今日見えたりし人、そのままに」廿よ日あとをたちたり。

 文のみぞ、ふたたび許みえける。「かうのみ胸やすからねど、おもひつきにたれば、心よはき心ちして、ともかくもおぼえで。八日許のものいみしきりつつなん。ただいま今日だにとぞおもふ」など、あやしきまでこまかなり。はての月の十六日ばかりなり。                             (『旧大系』二五一頁)


 『旧大系頭注』 このごろはもう精神の動揺不安で、思案もつきたので、弱気な気がして、正気でもないようで。この年、「十二月十五日於太政大臣職曽司除目」(紀略)。この人事問題でひどく頭を悩ますことがあったとみられる。


『新大系』は『新全集』と同じです。

【検討】 「おぼえで」という形が不自然であるため、それを自然に解釈しようとしたら、兼家の手紙の内容にするしかなかったというのが『旧大系』の校訂です。そして、その手紙に含まれる悩みは恐らくこういった事実だろうと推測するのが『旧大系の頭注』ですが、兼家が「ぼんやりして正気を失っている」とは考えられないというのが、『新全集』以下現在の定説です。この説の問題点は「おぼえで」で主語が移動する点と、「あやしきまでこまかなり」とこの手紙の簡単な内容が言えるかどうか、疑問はやはり残ります。


 会話記号が打ってある原文であれば、受験生はそれに従って、考えればいいのですが、会話記号を付けず、「この部分は誰の感想か」と設問するならば、「無理題」となるわけです。