昨日、検証したとおり、読点を「かく」の前に打つ限り、常識的な口訳は不可能になる仕組みです。


 最近入試問題の原文として多く採用されるようになったのは、『講談社学術文庫』ですが、その『蜻蛉日記(中)全訳注』(上村悦子)は、次のようになっています。


【本文】 心もとなき身だに、かく思ひ知りたる人は、袖を濡らさぬといふたぐひなし。

【口訳】 私のような実情にうとい者でさえもこんなにせつなくなって同情されるのだ から、実際事情をわきまえている人は、だれ一人として袖を濡らさぬ人はなかった。


 ね、この本文から、この口訳は出て来ないでしょう。

 「かく」を述語にとるからこそ、この口訳は生まれるのですから、当然、「かく」の後に句点(読点でも)を置かなくてはならないのが理屈です。


 こんな訳注が氾濫し、それをそのまま使う出題者が増していることを憂えています。「無理題に遊ぶ」として取り上げた理由です。


 辞書について、書いておきます。


 私がまず見るのは『基本古語辞典』(大修館 1969 小西甚一)ですが、この辞典の「こころもとなし」の項には次のようにあります。


[こころもとなし]

④ 不案内だ。

 「(源高明ノ流罪ハ)いみじう悲しく、こころもとなき身だに(=事情ノオボツカナイワタシニトッテサエ)かく(大キナショックダ)。思ひ知りたる(道理ヲワキマエタ)人は、袖を濡らさぬといふたぐひなし」(蜻蛉・中)


 もう一つ、用例に採用している辞典を挙げます。『小学館 全文全訳古語辞典』(2004)


[こころもとなし]

④ 様子をはっきりとは知らない。事情にうとい。

【例】「心もとなき身だにかく。思ひ知りたる人は袖を濡らさぬといふたぐひなし」<蜻蛉・中・安和二年> [訳] (左大臣高明が流罪になった事件について)事情に不案内な自分でさえこんなに(悲しい)。(まして)よく知っている人は同情の涙で袖を濡らさぬ人はない。


 ね、すごいでしょう。同じ小学館の『新編日本古典文学全集』が1995年に刊行されているのに、それをまったく参考にすることなく、辞書の用例に使うなんて。


 ただ、私は、学習辞典としては、この用例採用に賛同する者であるということは既に述べたところです。


 それにしても、古文の解釈は百鬼夜行、どこにどんな意見が潜んでいるかわからず、また、それを何の検討もなく、すまして出題するとしたら、可哀想なのは受験生であるということになりそうです。


 「石川や浜のまさごはつくる共、世に無理題のたねはたへせじ」でしょうか。


 数回にわたって、つき合っていただいて感謝しています。