年賀状に「ブログを読んでいます」というのが幾つかあり、責任を痛感しています。


 若い国語の教員、あるいは、これから教員になろうという諸君の少しでも参考にと思って書いているのですが、何しろ浅学非才、内容の深さについてはどうしようもありません。ただ、できるだけこんな若人の参考になればと今年も書き続けようと思っています。


 『蜻蛉日記』は本文の校訂から解釈まで、かなり問題があるようですが、私の気になった、わかりやすい例を今日から数日「無理題」として取り上げます。


 969(安和2)、「安和(あんな)の変」が起こりました。平安中期の政変で、それ以後の藤原氏の専制確立過程の最後の事件ですが、その事件に連座、太宰府に左遷された源高明(西宮の左大臣)の北の方が、蜻蛉日記の筆者(道綱の母)の夫、兼家の妹であり、前々から親しくしていたために、高明に同情した文をしたためました。(『蜻蛉日記』中巻)


 「二十五六日のほどに、西宮の左大臣流されたまふ、見たてまつらむとて、天の下ゆすり(大騒ギヲシ)て、西の宮へ、人走りまどふ。いといみじきことかなと聞くほどに、人にも見えたまはで、逃げ出でたまひにけり。愛宕になむ、清水に、などゆすりて、つひに尋ね出でて、流したてまつると聞くに、あいなしと思ふまでいみじう悲しく、心もとなき身だに、かく思ひ知りたる人は、袖を濡らさぬといふたぐひなし。あまたの御子どもも、あやしき国々の空になりつつ、ゆくへも知らず、ちりぢり別れたまふ、あるは、御髪おろしなど、すべて言へばおろかにいみじ。大臣も法師になりたまひにけれど、しひて帥になしたてまつりて、追ひくだしたてまつる。そのころほひ、ただこのことにて過ぎぬ。
 身の上をのみする日記には入るまじきことなれども、悲しと思ひ入りしも誰ならねば、記しおくなり。(『全集』173頁)


【口訳】わたしのような実情にうとい者でさえも、こんなふうに泣かずにはいられない、そしていかにも人情のわかる人ならば、袖を涙で濡らさぬ人は誰一人としてないありさまであった。(小学館版『新編日本古典文学全集』)

【問題提起】太字部分の「だに」の後の読点の位置は間違いではないか。