昨年出版した、『「無理題」こそ「難題」』は、「なぜ」「無理題」は起こるのか、「どうして防ぐことができるのか」、そして、「どこに『無理題』が存在するのか」を書きました。


 その内、ここは「無理題」になりますよというところを指摘しました。昨日までに書いた、『増鏡』の部分も今後同じ出題は許されないでしょう。そらの箇所で、もっとも代表的な出題例を今日は挙げておきます。


 第二章例二の問題です。

昔、大隅守(桜島忠信)が政治を行っている時、郡司がいいかげんであった。何度も不始末があったので、重く罰してやろうと思って、身体を押さえる役、笞(しもと)で打つ役などを用意して呼び出したところ、白髪の老人で、笞で打つわけにもいかない。大隅守は「何とかこれをゆるしてやろう」と思って、「歌が詠めるか」とたずねると、「たいしたことはありませんが、詠みましょう」というので、詠ませたところ、(以下本文)
 程もなく、わななき声にてうち出す。
  年を経て頭の雪はつもれどもしもと見るにぞ身は冷えにける
といひければ、いみじうあはれがりて、感じて許しけり。人はいかにも情はあるべし。
                                   (『宇治拾遺物語』巻九)
問題 傍線部を口語訳せよ。
 

【検証】この部分については、教室で学習した人も多いと思いますが、おそらくすべての人が、「人間には風流心があるべきだ」と解答すると思われます。単語「なさけ」の意味を「風流心=歌を作る力」と解します。主人公は老郡司なのです。授業ではすべてそう教えます。なぜかというと、この宇治拾遺物語の表題が「歌詠みて罪を許さるる事」とあるからです。あらゆる専門書・参考書がそう解釈していました。私のデータでは、8大学で1995年までにその部分が出題されていました。そして、それは「無理題」ではありませんでした。


 ところが、1996年に小学館版『新編日本古典文学全集』が刊行され、この話の主人公は「老郡司」ではなく、「大隅守」であって、「人間にはともかく温情はあるべきものだ」と「大隅守」の「郡司」を許したことを主題と考え、「情」は「人情」と解すべきだという解釈を明らかにしました。


 入試問題に限って考えると、この「宇治拾遺物語」の出題原文に当然、「歌詠みて罪を許さるる事」という表題は付けません。だから、主題は明示されません。しかも「今は昔、大隅守なる人」と、まず、主人公を「大隅守」として書いています。とすると、新全集の主張も受け入れる必要がありそうです。しかも新全集は誰でも手に入る、しかも教科書の原文に使われるようになった定評ある刊行物です。これらの事情を考えると、この小学館版『新編日本古典文学全集』が刊行されて以後、この宇治拾遺物語巻9の原文で、その主題、「人はいかにも情あるべし」の部分の意味を訊く設問は「無理題」と言わざるを得なくなったといえるのです。


 当然、納得しない出題者はいるわけです。1996年以降、現在まで、5大学で出題されました。そのすべての大学で、この「情」は「風流心」として採点されたに違いありません。しかし、それは入試問題としては間違いなのです。その箇所を出題してはならないのですということを、2008年度の防衛医科大に私は申し入れたのです。それに対する大学側の回答は、『「無理題」こそ「難題」』を御覧ください。懇切丁寧に答えてもらって感謝しています。ただ、この出題者は他方の考えを認めていません。気がついてもいなかった節があります。


 だから、ここをそのまま出題したら、「無理題」になりますよという警告も、この本『「無理題」こそ「難題」』の一つの役割と考えました。終りに索引を付けたのも、それをおもんばかってでした。

 大学入試の国語・古文の出題者はぜひそれを参考にして欲しいのです。そして、ここはどうかを参照するために、大学図書館、あるいは公立図書館に、この本を常備して欲しいと思っているのです。全部を読む必要はありません。ここは大丈夫かということだけ、参考に利用されんことをひたすら願っています。