昨年も書いたと思います。国語を教えている教員として、大新聞の皇室に対する敬語が我慢ならないのです。私ももう老齢、皇后様と同年とあっては、何をおいてもこのことを(早稲田の問題以上です)書き留めておかなくてはと今日は取り上げます。


 朝日新聞は、皇室の記事に対して、まったく敬語を使っていません。一度質問いたしました。「われわれは『人間天皇』として、普通の人と同じように扱っている」というのが私に対する校閲部の答えでした。

 私は、「『天皇陛下』の『陛下』は敬称ですよ。一度敬称を使ったものには、その述語で敬語を使うのが日本語の約束ですよ」と伝えましたが、やれ二重敬語は禁止されているとか訳の分からないことを言って、以後、さっぱり変わりません。


 毎日新聞は、はじめの文だけ(一度だけ)敬語を使います。そこで、質問したところ面白いことがわかりました。

 東京配信の皇室記事は、朝日新聞と同じく、敬語を使わないそうです。しかし、関西においては、読者の皇室に対する気持ちを大切にして、最初のセンテンスにだけ、敬語を使うことにしているそうです。

 私は、「馬鹿か」と伝えました。日本語は最後の述語に全てを託します。よく否定表現が最後に出てくる日本語は外国語と比較して通訳しにくいなどと言われる日本語の特色です。「同じ一回使うなら、最後に使いなさい」と教えましたが、「わかりました。」というばかりで、それ以後、さっぱり変わりません。


 ついでに、国立国語研究所に電話しました。「私の所は言葉の善悪を決めるところではないので……」という長い前置きを電話で聞かされ、それでも、敬語の専門家と話をいたしましたが、「その通りだと思います。所長に伝えて、しかるべき機会に新聞社にお願いすることにいたします。」という返事はありましたが、さっぱり変わりません。こんなことも答申できないなら、国立国語研究所は「仕分け」の対象にお願いしたいくらいに思っています。


 私が「敬語を使え」という部分は述語部分です。そして、そこで、敬語を使いたいのに使えない場合どう処理するかというと、連用中止法(途中止めー読点が目印)と体言止め(句点の前を名詞で終わる用法)だと一年前のブログで指摘しました。


 そこで、一年後の今日の毎日新聞の「天皇陛下77歳に」の記事(500字足らずです。筆者、真鍋光之)の述語部分を検討してみましょう。


 「誕生日を迎えられた。」 「会見し、」「高齢者の所在不明問題にふれ、」 「などと述べた。」 「3年ぶり。」 「率直に述べ、」 「と語った。」 「と喜び、」 「と提言。」 

「と語り、」 「といたわった。」


 読むとわかるように、6センテンスです。そして、最初のセンテンスは約束通り敬語を使っています。「迎えられた。」です。残る5センテンスのうち、体言止めが2箇所。(体言止めはリズムを生むと言われますから、使う場合もありますが、それにしても多すぎる)。そして、残る3センテンスに、すべて連用中止形が。(①「会見し、」「ふれ、」「述べた。」 ②「述べ、」「語った。」 ③「語り、」「いたわった。」)


 私だったら、こう書きます。

 ① 「誕生日を迎えられた。」 ②「などと述べられた。」 ③「3年ぶり。」 ④「と語られた。」 ⑤「と提言。」 ⑥「といたわられた。」

 これだけのことです。


 筆者がどう意識しているかは分かりませんが、敬語を意識して、かなり窮屈にこの記事を書いていることがこの記事から窺われるのです。

 「文は人なり」です。筆者はもっと自分の皇室に対する気持ちを素直に表現してはいかがでしょうか。それほど難しいことをお願いしているわけではありません。最後の述語に敬語をそっと使っていただければ、国語の教師として安心するわけです。

そして、それが、国民の気持ちではないでしょうか。