大それたことを一昨日・昨日のブログで書きましたが、書いた内容は簡単なことです。
口語体の文章は、現代仮名遣いで、文語体の文章は歴史的仮名遣いで、ということです。
口語体の文章でありながら、丸谷才一さんは歴史的仮名遣いで書かれていました。
あるいは、唱歌「故郷」は、文語体の歌でありながら、現代仮名遣いで書かれていました。
ただ、それに異論を書いただけです。
常用の漢字が増したことが話題になっています。
漢字については、それぞれいろんな意見もお有りでしょう。高島俊男さんの『お言葉ですが…』第11巻の通巻索引を見ると、「漢語」の関係項目が圧倒的に多いことがわかります。その次は一見「朝日新聞」というのが面白いのですが。
旧漢字と新漢字、例えば「文藝」と「文芸」などは、漢字が表意文字であるかぎり、何らかの歴史を持つ、旧漢字を捨て去ることが出来にくいのは当然でしょう。しかし、長い間、大学入試の漢文の試験では、旧漢字で書き、「注」で新漢字を表記する習慣がありましたが、現在は新漢字で表記されるのが通例となっています。
まして、そういう古い習慣、意味を持たない現代仮名遣いが、新聞その他で、普通の表記法として採用されているのは当然です。
そして、現代仮名遣いと違った歴史的仮名遣いは、文語体の文章の正しい表記法として、残しておけばいいわけです。文語体の文章は、文語文法によって書かれます。文語文法には歴史的仮名遣いが大きく関わります。
『「無理題」こそ「難題」』の73頁、「絶ゆ」と「耐ふ」はヤ行とハ行で活用しますが、決して混同されません。これがいい加減になると「無理題」になるわけです。
「今こそ祝へこの朝」(紀元二千六百年奉祝歌)の「祝へ」はハ行でなくてはならないというのが歴史的仮名遣いです。この歌は文語体で作られ、「係り結び」という文語文法の規則を含んでいるからです。
先に、9月22日のブログで「文語がへりー短歌月評より」というのを書きました。そこで指摘されたのは文語文法に従っているかどうかでしたが、何よりも歴史的仮名遣いに従っているかどうかがまず問われなければならないと私は考えます。