私の、国語教師としての、勝手な心の師、丸谷才一さんですが、たった一つ納得できないところがあります。


 昨日も、「念のために断っておけば、文評論の読解にかけては、私はおそらく今の日本で最も能力のある百人くらのうちの一人だう。うい人間が手を上げるしかないものを出題するのは無茶な話だ。」という文章を引用しました。


 そして、引用ミスにすぐ気がつきました。「文藝」の「藝」の字と、「だらう」の「ら」です。私は「文芸」と書き、「だろう」と書きました。気がついたのですが、直しませんでした。丸谷さんの表記が気に入らなかったからです。


 「文藝」に特別な意味をお感じなのはわかりますが、日本語のリーダーとして、「文藝」と書くならば、「読解」はやはり、「讀解」と書かなくては筋が通らないと私は思うのです。(「文藝」は特殊な用語だよということでしょうが私にはわかりません。)

 

 すべて、旧漢字で表記することも一つの見識と思いますが、ただ、生徒には読めません。高校までの教育でこの旧漢字を教える、国民の、日本の伝統文化の、教養として教えることは不可能でしょう。伝えたいことがあるならば、できるだけ負担のかからないようにして伝える、それが私の旧漢字についての思いです。


 歴史仮名遣いについても同様です。何も「百人くら」「一人だう」「さういふ」という仮名遣いをする必要がどこにありますか。「百人くら」「一人だう」「そういう」で話が通じれば結構ではないですか。すべからく、現代仮名づかいを採用されることをお願いする次第です。(この「すべからく」のように、口語体に文語体の表現が交じることはやむを得ません。無視し、全体として口語体か文語体かを判別すれば十分でしょう)


 この上にたって、私は「兎追いしかの山」(「故郷」岩波文庫『日本唱歌集』203頁)が気に入りません。「追いし」は「し」という過去の助動詞が使われているので文語体です。文語で、「追う」という形はありません。「追ふ」です。ハ行なのです。だから、「兎追ひしかの山」でなくてはならないと私は思っています。


 文語体の、歴史的仮名遣いは整然としています。高校では古文の授業ではっきり教えています。それを残すのが日本固有の文化ではないでしょうか。


 私は母校の校歌について関わりをもちました。そして、方々の校歌を見たり聞いたりいたしました。


 石碑になったものも多いのですが、それを見て、文語体でありながら、現代仮名遣いで書かれているものが余りにも多いのにガッカリしています。


 口語体の文章は現代仮名遣いで。文語体の短詩型文学・文章・歌詞は歴史的仮名遣いで。こういう当たり前のことを是非実行したい、運動として押し進めたいと考えています。