五年ほど前、私の母校の資料室の片隅から、昭和六年、新しい校歌を依頼された母校の先輩、葛原しげるの当時の校長宛の手紙十通が出てまいりました。


 それは、全体として、その時、校歌を依頼されてどう思ったかから始まって、校歌が定稿にいたるまでの、「これで万事すみました」という言葉で結ばれた、貴重な葛原しげるの校長宛、進捗度報告の手紙類でした。


 その中に、昨日書いた、「御国の幸をば増さなむ我等」にいたるまでの、初稿「御国の輝き増さ(な)む誠之」という未定稿を見出だしました。この( )に注意してください。


 葛原しげるは、誂えの「なむ」を想定したのではなく、従って『日本語文法大辞典』の言う「誂えの概念の正しい受け止め方」が出来なかったわけではなく、ただ、単に「増さむ」という形の間に、「な」という強調の語をはめ込んだに過ぎないというのが私の理解でした。この「な」は少し難しく言うと完了の助動詞「ぬ」の強意の用法というのでしょうが、この語が横から入って強めていると考えたわけです。


 こんな語の変化生成の形があるかどうか、素人の私にはわかりません。ただ、葛原は、間違いなく「増さむ」という語を強めるために「増さなむ」と「な」を加えたと理解しました。彼には、「なむ」という終助詞一語の意識がなかったのではないかというのが私の結論でした。


 こう考えると、前に挙げた、近衛文麿の和歌も、山本五十六の和歌も、「なむ」を誤用したのではなく、強い意志をあらわす、「なむ」という形ではあるが、「む」を強調した形を志向したと説明できそうです。

 私は、この手紙のほとんど見落としそうな部分を見て、うれしく思いました。これは、近衛文麿、山本五十六、葛原しげるの気持ちにもっとも近い解釈ではないかと。


 そこで、こういう「なむ」の用法がどの程度近代の歌の中で使われているか、特に寮歌にあるかもしれないと思い、『寮歌は生きている』(旧制高校寮歌保存会編)を繙きました。そうしたら、数限りなくありました。以下明日。