先月、9月22日と24日に「文語がえり」と「文語体の難しさ」を書きました。今日からはその続きです。


堀辰雄の小説『風立ちぬ』に出てくるヴァレリーの詩の一節の訳語の「風立ちぬ、いざ生きめやも。」について、それが、誤用であるという指摘は国文学者である、松尾聡氏ほか、多くの人から指摘があったようです。文語体の誤用問題のもっとも有名な例かもしれません。


 私は、前から、その話は承知していましたが、宮地伸一『歌言葉考言学抄』をネットで読んで、改めて確認している次第です。


 「Le vent se leve ,il faut tenter de vivre」というのが原文です。直訳すると、「風が起こった。さあ、生きねばならない」ということでしょうか。


 問題は、「生きめやも」の「めやも」が上代以来の用法で、「反語」を意味するという点です。それに従うと、「いざ、生きめやも」は「さあ、生きようか、いや生きることはないだろう」という意でしかないというのが誤用説の主張のようです。


 そして、堀辰雄がそれを知らぬはずはないとか、正しくは「生きざらめやも」だとか、いや、「生かざらめやも」だとか議論は一杯あったようです。


 しかし、堀辰雄は訂正いたしませんでした。


 私は、この詩と、その訳は、表題の次に載っているものとばかり思っていました。それでは、誤用説あるいはそれからくる訂正要求も十分あり得るかなと思っていましたが、ある時、その「風立ちぬ、いざ生きめやも。」を見て、自分の誤解に恥じ入るばかりでした。


 表題「風立ちぬ」、その後に、PAUL VALERYの先ほどの詩があります。


 しかし、「風立ちぬ、いざ生きめやも」は、その直後ではありませんでした。

そのつづき。


 「序曲」

 「それらの夏の日々、一面に薄の生ひ茂った草原の中で、お前が立ったまま熱心に繪を描いてゐると、私はいつもその傍らの一本の白樺の木蔭に身を横たへてゐたものだった。さうして夕方になって、(中略)

   風立ちぬ、いざ生きめやも。

 ふと口を衝いていて出て来たそんな詩句を、私は私に凭れてゐるお前の肩に手をかけながら、口の裡で繰り返してゐた。……」


 筆者堀辰雄は、その反語の用法は熟知していたに違いありません。しかし、この場面ではこうしか訳せないよというのが、「口を衝いて出て来たそんな詩句」なのだと思います。


 「口を衝いて出て来たそんな詩句」に目くじら立てる必要はありません、というのが、この世紀の誤用(大げさかな)説に対する私なりの結論です。

 因みに、今、見ているのは筑摩書房版『現代日本文学全集』第72巻256頁です。


 これしかないような素晴らしい、訳ではないでしょうか。