鈴木さんのノーベル化学賞受賞のニュースは10月7日の朝刊で知りました。おもしろくないニュースが続く中で、本当にうれしいニュースでした。


 ただ、「鈴木さんは子どものころから複数の正解がある国語より、論理的に一つの答えが導かれる算数が好きな少年だった」という記事には、国語教師として、にやりとすると同時に、そんな馬鹿なという思いもありました。


 たしかに、国語には正解が二つあることがあります。しかし、全部ではありません。それをなくすために、「無理題」という問題を提起し、『「無理題」こそ「難題」』という本を書いたのではないかというのが率直な感想でした。


 例えば、この度の『増鏡』の問題でも、学者と称する方が、「元高校の先生であるという方のウの解答も誤りとは言えません。敬語の用法と、高貴な方が侍女を介しての対話するという古文常識とから、ウを選ぶことも一つの立派な解釈です。(以下「しかし」とわけのわからない理論が続きます)


 この校閲者の仰るようなことを、高校の授業現場で教えていたら、国語嫌い、ひいては文系の志願者が少なくなるのは当たり前でしょう。


 学問(少し大げさですが)という限り、そこには論理的に説明できる、言い換えれば、一つの答えを模索する姿勢がなければなりません。それを放棄すれば、その学問にたずさわる一員であることを放棄するだけでなく、その教える生徒に「国語は正解が一つとは言えない」という情けない印象を与えるだけです。


 現在の大学入試古文の世界は以上のような先生方の跋扈する聖域です。これを壊さないと、国語の未来はないというのが私の『「無理題」こそ「難題」』を書いた理由です。


 驚くべきことに、今度の早稲田大学国際教養学部の『増鏡』問十七の問題は、拙著『「無理題」こそ「難題」』の「はじめに」に書いた問題と、出題者あるいは校閲者の姿勢が全く一致しました。(O社K社とのやりとりでわかりました)


 大学の出題者は発言していませんが、恐らく、O社の解答者と同じことを考えているでしょう。そうすると、「はじめに」に書いた出題者と同じです。

 「高校の勉強に齟齬するが、それが古文です」


 何て言いぐさですか。「高校の勉強に齟齬すること」を出題して、出来ないことを喜ぶとは。それでは高校では何も教えられません。


 「あなたがおっしゃるのも立派な解釈です」 O社の校閲者のお言葉。


 この言葉は、ノーベル化学賞の受賞者の言葉で返しましょう。「国語は正解が二つあるからいやだ。」


 つづきは明日書きます。『「無理題」こそ「難題」』の「はじめに」が、早稲田の問題と酷似していることを是非注目してください。