今日、最後のK社から、回答が参りました。びっくりするような内容でした。O社のものより私自身ショックが激しいので、できるだけ忠実に報告いたします。


1 「このすぐあと、宮のそばに添い臥し宮を抱くのであるから、この非常の状況、事態に対して、敬語が乱れるのは『源氏物語』若紫等の幾つかに見られる現象と鈴木日出男の最近の書にあります。また「聞ゆ」を謙譲と考えるより、作者の受手尊敬と(玉上琢爾)とらえる方が適切と思います。つまり、、作者の受手(ここは中将)への好意的敬意がついたものと思えます。」

 

 ここの敬語が乱れている(非常の状況のために)とお考えなのか、玉上琢爾氏がとなえるように正しい敬語法とお考えなのかわかりません。


2 「次に高貴な女性が男性と会話を交わすことは殆どないので中務の宮を主語から除外すべきとありますが、(中略)「更級日記」の例にあるように、運命的な場面では、平安貴族社会での常識など吹き飛んでしまうのである。」


 突如「ですます体」から「である体」に文体が変わるのに驚きますが、これは筆者の感性でしょうか。

 私は、生徒とともに常識に生きるしか教師の道はないと思っています。


3 「最後に、ここを、「増鏡(中)全訳注」井上宗雄(講談社)では、

 御簾の中でも、宮は心づかいされて少しは返事などされる

と現代語訳している。」

(以下、古典大系他の説明なので略します)


 O社の先生はこんなことを申されませんでした。自分の考えだけを述べられました。(私には納得いかない旨は答えておきましたが)

 ところが、ここまで読んだ時、あきれました。

 これでは、テレビ「水戸黄門」で、「この印籠が目にはいらぬか」と言ったとき、相手が偽だと知っており、「何を言っているのよ」と無視してしまうような馬鹿げた場面になってしまいます。井上先生は正直に答えてくださいました。病床から。本当に感謝しています。またこんな幸運はないと思っています。もし、井上先生が、否定されているならば、この論は「水戸黄門の印籠」として、いつまでもまかり通ってしまったかもしれません。私は恐ろしいことだと思います。「不可侵の領域」はこうして出来上がってしまうのだろうと思っています。


 「いと馴れがほに添ひ臥す男」とあって、『添ひ臥し聞ゆる』とも『添ひ臥し奉る』ともないのは注目すべきである。ここも侍女が添い臥したのではないのは明らかである。なぜ倫(倫の時は勘弁して下さい。ワープロに活字が見つかりませんでした)子女王に敬語がないかなど目くじら立てるには当たるまい。その敬語の有無が文学なのである。それによって、為手の心情を巧みに表しているのである。」


 こんな「いと馴れがほに添ひ臥す男」という表現に敬語、特に謙譲語を用いますか。ないのが当たり前でしょう。誰も、ないと言って目くじら立てるものはありません。その上で、ここに敬語を使わないのが文学であるとはあきれた学者のことばではありませんか。


 「小生は以上のように考えて通説に従ったのである。

  ここの主語を侍女ととったのでは、この微妙な状況や経過を無視したことになる。侍女(人々)は有房のような人ならとっくに買収していると思うのは打算的な心情だろうか」


 まったく何をおっしゃるやら。有房はすでに御簾の中の按察の君という女房を買収しているのです。だから、按察の君が自分の主人である女王と有房の関係が噂になることを心配=心づかいして、ほんの少しお答えしたのです。これこそ文学ではないですか。

 

 以下、「(小生も)雑誌「文法」の懸賞論文に応募し、「「月刊文法」賞第二席(第一席はなし)に「接続助詞『ば』の一用法」で当選したくらいです。」

 

 ここで、この人が誰か、私にはわかりました。しかし、名前は報告いたしません。


 最後に「質問者御中」とあるのに驚きました。「御中」は、組織や団体の下に書き添える敬称です。「私は一人、組織や団体ではありません」と申し添えました。


 O社の例と異なり、長々と書きました。酒を飲んでの一筆です。「御中」と書くようなミスを一杯犯しているのではないかと心配しています。

 もし、納得できない点があれば、是非ご意見を聞かせてください。

 角川学芸出版にはA43枚に書いて返事を送っておきました。