昨日の朝食の時、私は毎日新聞を読みながら、思わず、ウーンとうなり、早速、老妻にこの記事を見せました。


 「季語刻々」ー坪内稔典

 麦秋のソースじやぶりとアジフライ      辻桃子


 私は、いつも夕食の時、片っ端からウースターソースをかけます。ソーセージにも餃子にも、フライは当然のこと。チャーハンからカレーまで。

 老妻はこれに文句を言います。

 「それぞれに違った味があるし、それを生かすように料理しているのだから、それをすべてウースターソースの味にするなんて、下品ですよ」。

 私は、幼いときから、いつもソースをかけていました。「今更変えることは出来ないよ」というのが私の言い分です。「一番うまいと思う食い方で食ってもらえるのが、食材にとってもうれしいことでしょう。」


 昭和26年頃でしょうか、福山の駅前に「ダイヤモンド」というカレーの専門店がありました。テーブルの上に、「当店ではソースを置いていません」という書き付けが置かれていました。「何だ、気取りやがって」と文句を言いながらわれわれはそれでも食いに出かけていました。うまかったのを覚えています。

 これは何を意味しているのでしょうか。この地方のみんなが、カレーにソースをかけていたためでしょうか。その悪弊をやめさせるために、そして、自分の作ったカレーのプライドのためにでしょうか。


 前の句に戻ります。私のつぶやき。

 「麦秋の」の「の」がわからないな。「麦秋や」「麦秋に」「麦秋は」どれもありそうだな。しかし、やはり「の」がいいか。「麦秋の」としても「ソース」にはかからないよね。「麦秋のアジフライ」だよね。いいじゃないの。季語は「アジフライ」。「鰺の旬だからな」「じやぶりと」の「じ」と「アジフライ」の「じ」が響き合って効果的だよね。

 しかし、誰がこんなにソースをかけて食っているのかね。

 稔典さんは「90歳まで生きた私の父は料理が得意で、たまに帰省すると、鰺の刺し身やフライを作ってくれた。父はフライにソースをじゃぶじゃぶとかけた。」と書いているけど、ソースをかけたのは自分ではないの? 作者の辻桃子さんは?


 それにしても、稔典さんはずるいよね。句の意味を説明することはほとんどないもの。素人はその意味が聞きたいのよね。朝日新聞の大岡信さんはそれをはっきり書いていたよね。それがために、間違いを指摘されたこともあったけど、あれはあれで潔かったな。稔典さんは、読者が勝手にいろいろ読めばいいということだろうけど、それだと、こんな記事を書かなければいいのに。

 「父がソースをじゃぶじゃぶかけた」。「季語は麦秋」。「私の小学生時代には農業休暇があった」。「麦秋の候にはことに鰺がうまい」。こんな説明どうしようもないでしょう。


 ネットで二人の年齢を検索すると、それぞれ私より10歳位若く、戦後の食糧難の時期を過ごした年代とわかりましたが。


 「ソースを何にでもかけて食ったが、やはり、一番は『蓮根のフライ』だよね」というのが「鰺」も食えなかった私の感想です。『蓮根ーれんこん』はこの地方、主産地でした。