戦後、1948(昭和23)年から、1955(昭和30)年まで行われたのが、「進学適性検査」でした。これについては、次のように総括されています。

 「進学適性検査は、従来の学力検査偏重の選抜に基づく弊害を除去することを目的として実施されたのであるが、その出題および結果の妥当性についてじゅうぶんな信頼が得られなかったこと、反面、進学適性検査のための準備が激しくなり、受験生にとって学力検査との二重負担となったなどの理由により、大学側・高等学校側のいずれからも廃止の要求が出されたため、昭和三十年度から国が一せいに行なう進学適性検査は廃止された。」(『学制百年史』)


 私はこれを二度受けました。文系の問題と理系の問題に分かれていて、当時、はやりの知能テストを少し複雑にしたような問題だったと思います。

 一つだけ記憶しているのは、文系の問題で、法律の説明を先に挙げて、「財布を盗もうとして、他人のポケットに手を入れたところ、そこには何もなかった。これは法律に触れるか」という問題があったことです。その時、「未必の故意」という言葉も知りました。


 面白い問題でした。しかし、こんな問題では、高校や予備校の対応は簡単だし、また、出題者がいくら頭をひねってもそう多くの異なったパターンの問題を毎年提示することは出来ないでしょう。数年で廃止されたのも仕方がないところでした。


 1963(昭和38)年、中央教育審議会の答申「信頼度の高い結果をうる共通的、客観的テストの研究・作製および実施とその主体となる専門機関の設置」に基づいて設立されたのが「財団法人 能力開発研究所」でした。

 この能力開発研究所がテスト実施の試行に入ったのは、1963(昭和38)年であり、翌年7月に「進学適性能力テスト」が実施されました。

 しかし、このいわゆる「能研テスト」に対する教育現場の反応は厳しく、教育内容の国家統制強化につながるものとして、教員が受験生の参加をすすめなかったこともあって、受験生の参加者が年々減少、財政上の理由も加わって、1968(昭和43)年度をもって「能研テスト」は中止となりました。

 こんな思い出もあります。

 私は、この「能研テスト」の実施された年の担任でした。このテストには東京芸術大学が参加していました。その東京芸大を希望する生徒がこのテストを受けました。その結果全国順位12位でした。私は、この順位なら間違いなく東京芸大に合格すると思っていたところその生徒は不合格でした。東京芸大では、ただ、文部省の顔を立てるために参加しただけで、入試は実技中心の別の厳しいものを用意していたのです。


 そして、共通一次試験とそれに連続するセンター試験が戦後三度目の全国テストとして1979(昭和54)年に始まり、現在まで続いているわけです。


 そうそう、昨日書いた藤原正彦さんに「入試センター試験」という文章があります。昨日紹介したのが「共通一次試験」という題だったので、その続きとして目にとまりました。

 「先日、入試センター試験が行われた。国公立大学の教官は入試監督としてかり出される。朝早く家を出て大学へ行くと、正門は閉ざされ、脇の通用口には職員が人垣を作り入構者を検問している、正門前は受験生で埋まっている。女子高生というのに、華やいだ空気はどこにもなく、暗色の群衆からはほとんど声さえ聞こえてこない。毎年のことながら、こちらまで緊張してしまう。」(『古風堂々数学者』より)


 実はその後を読んでもセンター試験のあり方について触れたところはありません。ただ、試験監督をした時の感想が淡々と書かれているだけです。

 もちろん、前の「共通一次試験」と、この「入試センター試験」がどの筋の求めによって書かれたかによって、内容が異なることは十分承知した上で、この文章を読むと、やはり、これだけ長く続くと「センター試験」の役割が、あの「共通一次試験」の始まる前とは違って、ある程度世間に認められたのではないかといくばくかの感慨をもよおすわけです。