去る六月十一日、大学入試センターは、来年度のセンター利用の大学数と日程を発表しました。それによると、利用大学数は六百六十三大学で、過去最高ということです。十年前の平成十四年度は四百七十八大学ということだから、この十年間で二百近くの大学が利用し始めたということになります。利用大学がどんどん増していることは驚異としか言いようがありません。一方で、五月八日の毎日新聞は「センター試験が『仕分け』の対象に」と報じています。あるいは曲がり角にあるこの試験かもしれません、今、この試験を振り返ることは意味のないことではないでしょう。


 もとより、その試験の意味などを大げさに、あるいは教育行政の視点で論ずるつもりもないし、その資格もありません。ただ、高校の一国語教師として、ずっと見続けたこの制度についての感想をある程度まとめる機会かなと思っています。


 センター試験の前身は共通一次試験、私は、新設校に移ってその二期生の卒業時から始まりました。四十四歳の時でした。それ以後三十年あまり、よくぞ教員を続けてきたなという感慨とともに、この試験の果たした役割について、いくばくかの感想をやはり述べておきたいと思います。


 共通一次試験が実施される頃のこの試験に対する世評はどうであったか、一例としてあの『国家の品格』の藤原正彦さんの『共通一次試験』という文章の冒頭を紹介いたします。

 

 「明年から実施される予定の共通一次試験ほど、まえ評判の悪い改革も近ごろめずらしい。反対論はいろいろ出ているが、とどのつまりは、それが受験戦争の緩和に役立つまいという意見に集約される。この見方は正しいと私には思われる。主催者側の国大協や大学入試センターは、これにより大学入試から難問奇問を取り除き、ひいては高校教育を正常化できると希望的観測をしているらしい。たしかに難問奇問を追放し、適正な問題をそろえることは望ましいことであるが、この程度の改善で受験戦争という社会問題が解決されると考えるのは、あまりに単純であるとしか言いようがない。」(『数学者の言葉では』より)


 これは、その当時の特別な見解ではありません。おそらく、当時の健全な考えを持った大学教授一般の主張だったように思います。


 こういった批判にさらされながら、センター試験の前身である、共通一次は始まりました。

 それでも、現場の高校教師は、ここにある難問奇問に悩まされていたために、ある期待を寄せ、それに応えるよう努めてまいりました。出来るだけ多くの生徒を受験させようとしたことなどです。