『夏は来ぬ』という歌の「卯の花の匂ふ垣根に」という歌詞中「匂ふ」についての検証をしてきましたが、インターネットで「夏は来ぬ」を検索すると、その意味は何かという質問がいっぱいあるのに気づき愕然としました。
「夏は来ぬ」は「夏ガ来タ」という意味ですが、当然文語体の表現だから、「夏ハ来ナイ」という意味にとれないかという質問は予想されるわけです。この文語体の難しさについては、すでに、「日嗣ぎの皇子はあれましぬ」などの表現についてこのブログで書いているので、森光子さんの「天皇の誕生を祝う歌が歌えますよ」という話などををもう一度読んでください。
私は、「におう=匂う」という表現にこれは困ったなと思っています。「夏は来ぬ」は文語体の表現です。その直前に「におう」という口語体の表現を平気で使う神経にいささか、不満を持つわけです。
これまでも、日本文化の担い手を自負してきた岩波書店の『日本唱歌集』の「夏は来ぬ」を書きとどめておきます。
うの花のにおう垣根に、時鳥
早もきなきて、忍音もらす 夏は来ぬ
さみだれのそそぐ山田に、早乙女が
裳裾ぬらして、玉苗ううる 夏は来ぬ
橘のかおるのきばの窓近く
螢とびかい、おこたり諫むる 夏は来ぬ
楝ちる川べの宿の門遠く、
水鶏声して、夕月すずしき 夏は来ぬ
さつきやみ、螢とびかい、水鶏なき、
卯の花さきて、早苗うえわたす 夏は来ぬ
このうち、「におう」は「にほふ」、「かおる」は「かをる」、「とびかい」は「とびかひ」、
「早苗うえわたす」は「早苗うゑわたす」が文語としての表現です。
歌い方には色々あろうが、歌詞は文語体なら文語体で統一すべきだと思います。「にほふ」、「夏は来ぬ」は日本の伝統的表現です。それを「におう」「夏は来ぬ」とは何たることか、日本文化のリーダーを自負する岩波文庫はそれなりの見識を示すべきだとひそかに思っています。
歌の歌い方は読みがな或いは歌いがなでしめせばいいでしょう。歌いがなというのは「におー」という表記のことです。
例えば、有名な「故郷」の「兎追ひしかの山」は、「兎追ひしかの山」でなければ、文語体ではありません。歌うときは「兎追いしかの山」と歌えばいい、「追ひし」を「追いし」とすると、文語体と、口語体の整合性が失われ、文化というもののもつもっとも大切な側面、整然とした体系が失われると思うわけです。
日本文化のもつ整合性、あるいは体系については後日またふれることがあろうかと思いますが、今、いろいろなところで、このすばらしさが失われていることを嘆かわしく思っている次第です。