平成10(1998)年2月18日の朝日新聞朝刊の、大岡信氏の「『目へ乳をさす』の反響に、おっぱいの恩、反芻しました。何だか心楽しき後日譚です。」という記事に感動いたしました。


 少し長いが、私にとって大切なので紹介いたします。

 

 拙文「折々のうた」をお読みの方々はまだご記憶の向きも多いと思うが、さる2月7日付で、江戸俳諧付句集『武玉川(むたまがわ)』から七七の付句「目へ乳をさす引越しの中」をとりあげた。前段を略して肝心の所だけ引けば、私は「現代人にはとんとわからぬ当時の風俗もたくさん詠まれている。この句は引越し騒ぎの一こま。あまり忙しくて、赤ん坊に乳をふくませるひまもなく、つい赤子の目におっぱいを飲ませてしまう母親」と書いた。この句が私にまず伝えてきたのは、滑稽(こっけい)感だったので、それに従った。そう解している人(ただし欧米人)もいることを後で知った。

 


 ところが、これに対して、異説が殺到し、朝日新聞だけでも百数十通、電話もひっきりなしだったようです。そのほとんどは、「(この句は)引越し騒ぎの最中ゴミが眼に入ってそれを眼の外へ出すために、衛生上も安全な(?)乳を注いでもらった図です」というものだったそうです。あと、筆者(大岡信)は外国ではどうなのかなど、探った次第を書いておられるが、最後に、次のように書かれていました。



 いずれもお恥ずかしいお話で、読者にもお詫びしなくてはならないが、いやはやそれにしても、こういう失敗談とその後日譚(ごじつたん)、書きながら何だか心楽しいのは、なぜだろう。



 私は、これを読んで、大岡信氏の率直な反省に打たれ、また、その間違いを指摘されたことの「心楽しさ」にまったく共感し、感動したのです。

 そして、これは、一方的にどちらが正しいと言えないのではないか、すなわち、「無理(題」ではないかと思ったわけです。

 随分勇気づけられました。こういう風に誤りを受け止められれば、それはそれで、素晴らしいことだと思いました。これが、それ以後、私の勉強に一つの方向を与えたことは間違いありません。解釈とは何か、根拠とは何か。そして、間違っているかもしれない時の身の処し方について。