11月15日、日曜日の夕方、『笑点』という番組で、司会者、桂歌丸が「日本文学の冒頭、たとえば、『くにざかいの長いトンネルを抜けると雪国であった。』などと言ってください。私が『それで』と言いますから、その後に続けて一言言ってください」という問題を出しました。

 解答者の三遊亭楽太郎が「こっきょうの長いトンネルを抜けると雪国であった。」と言って、「それで」以下、何か答えました。

 

 私はやってるなと思いました。司会者は誰かの書いた台本通りに読んだのでしょう。楽太郎師匠は自分の思い通りの読みをしたのでしょう。


 川端康成の『雪国』の冒頭は「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」とあります。この「国境」にはルビが振ってありません。この読み方をめぐって二つの主張があるわけです。


  このそれぞれの主張をまとめたのは、恐らく、岩波アクティブ新書『遊ぶ日本語 不思議な日本語』(2003年)ー飯間浩明ーが最初だろうと思われます。


 続いて、文芸春秋社『お言葉ですが…』(2005年)ー高島俊男ーがほとんど同じ視点からまとめました。


 そのまとめをみると、長谷川泉教授、武田勝彦教授などは『クニザカイ』派、そして、羽鳥徹哉教授などは『コッキョウ』派、平山三男氏は、「この二説はともに納得でき、互いに他を凌駕するものではなく、読者それぞれの語感に従って読めばよかろう」と述べているそうです。


 たしかに、両説わかれています。ほとんどはルビを振っていませんが、偕成社版「現代日本文学全集」の中、『川端康成名作集』(福田清人)は「こっきょう」とルビを振っています。

 角川書店版『鑑賞日本現代文学』(林武志)は、その[注]で、「国境(くにざかい)の長いトンネル 上野国(群馬県)と越後国(新潟県)との国境(くにざかい)にある清水トンネル。」としています。


 当の本人川端さんはどうか、「川端さんご本人は、それほど意識的ではないながら漠然と『コッキョーの』のつもりだったようで、『国境(こっきょう)と読んでいるでしょうね、みんな』『いや、でもあれは国境(くにざかい)のほうが……読む方も多いと思います』『そうですかしら』と、武田先生の自信溢れる論断にタジタジの態である。」(『お言葉ですが』第9巻)


 もう一点、「尾張と三河の境を『尾三国境』ということはなかろう。コッキョーとは国家と国家の境のことであって、上野国と越後国の境はクニザカイというべきだろう」ということも加えて「クニザカイ」派は主張しますが、「上越国境」という言い方はどうよむのでしょうか。朝日新聞(2009・9・18)は「上越国境 地下トンネルの駅」という見出しをたてております。「じょうえつこっきょう」と読むしかないでしょう。その他、「信越国境」「駿遠国境」というのも認められています。


 これは「無理題」です。双方強く主張するから。

 しかし、古文の場合は、新しい資料が発見される場合もあって、(最近、芭蕉の真筆が話題になったように)必ずしもどちらの主張を決定的とはしませんが、この場合は、これ以上の資料は出るはずがありません。そして、作者も「コッキョウ」がいいのではないかと思い、「上越国境」などと、一般に言うことも定着しているとしたら、この「雪国」の冒頭の読み方にどんな問題がありましょうぞ。

 

 私は、その引き締まった語感からも、「国境(こっきょう)の長いトンネルを抜けると雪国であった。」と読みます。


 学者が自説に固執するのはかまいませんが、根拠は明らかにする必要がありましょう。ぜひ、その根拠を知りたいと思っています。