上杉鷹山が桑の木に出会ったことで、米沢藩の運命が変わりました。(おおげさ?)
米沢の地は、この当時やせ地が多く、付加価値の高い農作物を作ることがほとんどできなかったようです。
鷹山は、生まれも育ちも江戸でした。上杉家へ養子に行き、藩主になってからは、参勤交代で米沢に帰ることになります。初めて米沢に行ったときは、やせ地を見て、さぞ驚いたことでしょう。そんな中、その地にもくもくと茂る「桑の木」に出会ったようです。
勉強熱心な鷹山ですから、桑の木の葉が、「かいこ」のえさになり、かいこがまゆを作って、生糸ができることは当然知識があったようです。
さて、絹織物の事業計画はどのように立てたのでしょうか?
資金調達をしたことは前回述べました。
ひと、もの、かね といった経営資源を活用して、生産のしくみを次のように作りました。
・農家で桑の木を植え、かいこを飼って、まゆを生産する。
・武士の家に、はたおり機を導入し、奥さんや娘さんが、生糸をつむいで、絹織物とする。
・はたおりの技術者を指導者として雇い入れる。
・はたおり機は、藩で購入し、武士の家に貸与する。
事業性の評価をしましょう。
まず、マーケティングや販路開拓から。結果的には、「口コミ」ではないかと思います。
この当時は、ものがよければ売れるという時代でした。絹織物のユーザー層は、江戸大奥、大名夫人、豪商等、身分の高い人やお金持ちでした。
「米沢藩の絹織物」のブランド性について考察します。米沢藩の上杉家は、上杉謙信以来の家です。この当時(1750年ごろ)は、ガリ版の印刷技術が発達し、戦国時代の武将を主人公とした戦記物が、講談とともに、印刷されてはやっておりました。上杉謙信は、「義」をトレードマークにした強い武将ということで、とくに人気が高かった(現在でも結構人気があります)ようです。上杉謙信はだれもがみんな知っている。人気がある。そして、「米沢の絹織物は、上杉謙信の家が作っている」という「口コミ」で、上記ユーザー層に対して、ある意味で「ブランド性」があったのでないかと思います。
次に、供給能力について考察しましょう。上に述べたように、藩あげての生産のしくみを作っていたので、ある程度の供給能力はあったと考えられます。受注生産であったと思いますが、とくに人気がでてから納期がどれだけかかったかは調べておりません。
また、多額の資金を貸している豪商たちも、貸付金の焦げ付きを恐れて、販売に協力したかも知れません。
次回は、上杉鷹山と、彼の師である、細井平洲について、人材教育にかかわる話をします。