幕末きっての国際派感覚の持ち主、島津斉彬の業績を紹介します。

薩摩藩第11代藩主で、1851年、ペリー来航直前に藩主になりました。天璋院篤姫の養父としても有名です。

琉球王国は当時、薩摩藩の保護下にありました。琉球は、地勢学的には東アジアのど真ん中に位置し、当時は東アジアの交易の中継基地として重要な位置を占めていました。現在は、アメリカ軍の基地があり、軍事的要衝であることは皆さんご存知だと思います。

島津斉彬にとって、鎖国中の日本の中で、琉球からもたらされる国際情報は非常に重要であったと考えられます。藩主になってすぐに、西洋の技術を取り入れて、富国強兵・殖産興業政策をとります。これは、アヘン戦争後、西洋やアメリカに中国はじめ東アジア諸国が植民地化されたことに、大きな危機感を持ったからでした。洋式造船、溶鉱炉、地雷、ガラス、蒸気機関等の国産化を試み、さらに、ジョン(中浜)万次郎を教育者かつ通訳に迎えます。開国後はさらに徹底したことは言うまでもありません。

島津斉彬はまた、教育熱心な殿さまでもありました。西郷吉之介(隆盛)は斉彬学校の優等生の一人であり、かつ斉彬の懐刀として活躍したことは有名です。他にも、大久保一蔵(利通)や、小松帯刀など、身分の高低を問わず、人材を育てています。


島津斉彬は幕政にも関与しています。老中;阿部正弘とは非常に懇意でしたし、次期将軍候補として、一橋慶喜を推していたことは有名です。また、外様大名が幕政に口をはさむというのは、時代の流れもありましたが、異例中の異例でしたし、また、島津斉彬に実力があった証明でもあると思います。

この幕府内の派閥抗争は、結局、島津斉彬や阿部正弘の病死もあり、井伊直弼側の勝利に終わったことは皆さまご存知ですね。しかし、時代の流れは、井伊直弼の暗殺、徳川家茂の病死と続き、徳川慶喜が15代将軍となります。


島津斉彬を少し離れます。徳川慶喜は、大政奉還しました。しかし、ここから勢力争いの始まりです。徳川慶喜と、薩長連合(西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允ら)が対決します。「錦の御旗」が重要なポイントとなります。薩長側に「錦の御旗」がついたこと(これは、外交戦そのものですが)で、水戸出身でもともと勤皇家である徳川慶喜は完全に戦意喪失し、戦線離脱しました。

いつも思うのですが、歴史は皮肉です。西郷隆盛は、自分の師匠であり、殿さまであり、かつ尊敬していた島津斉彬が勧めた徳川慶喜が将軍になりましたが、その人を自らたたきつぶすという結果になりました。歴史の流れには抗えなかったのでしょう。以後、薩長側が官軍となり、幕府側が賊軍となります。

西郷隆盛は、江戸城の無血開城を果たします。勝海舟という「盟友」が交渉相手だったこともありますが、それにしても人情家の面目を保ちました。西郷は、死に物狂いの敵を相手にすれは、味方に被害が甚大であることを知っていました。これが西郷人気のスタートともなりました。この後、会津攻めの総大将、大村益次郎(長州出身)は、会津若松城を徹底的に攻め、(勝敗はともかく)双方甚大な被害があったことは事実です。また、大村益次郎は、官僚的なやりかたでしたので、民衆には不人気でした。

この後、木戸孝允は病死、西郷隆盛は西南の役で自刃、西郷自刃の半年後大久保利通は暗殺されました。明治10年までに3人はなくなっています。かたや、徳川慶喜は、明治35年に公爵になり、大正2年10月、77歳でなくなっています。負けた人が長生きしました。これも皮肉でしょうか・・・


島津斉彬に戻りますが、時代が大きく変化する中で、自らの国際情報網を生かして情報を大いに活用し、日本の近代化の先駆けとなった人ではないかと思っています。


次回は、少し時代をさかのぼりますが、やはり国際派感覚の持ち主、平清盛の業績を紹介します。


上杉鷹山と直江兼続の藩政改革の根本的な考え方(教育が必要なこと)はよく似ております。


直江兼続は、関ヶ原敗北後、頭の切り替えのはやさと、環境適応能力をいかんなく発揮し、自らが藩政の最高責任者として、主戦派(徳川家康と戦って家名の尊厳さを後世に残そうという考え)をおさえ、上杉家を残したといえます。そして自らの強大な権力による藩政改革と、藩政の官僚を育てたわけでした。

上杉鷹山は、直江兼続のやり方を継承し、保守派(藩政改革反対派)を切り、組織の改革に着手します。藩内に、いきなりハウツーを教えても、意識改革ができていない状況では(藩政が)動かないことを熟知しておりましたので、細井平洲を招いて、(マネジメント)教育を実施したことは、以前述べたとおりです。


2人の共通点について考察します。

(1)いずれも養子さんですが、藩のトップとして強い責任感を持ち、強いリーダーシップを発揮して、藩内の人々を教育して、ともに巻き込んで藩政を行っています。

(2)2人とも殿さまですが、側室がほとんどいませんでした。自分の子孫づくりに励むよりも、自らも勉強して、人を教育して次世代をになう人材を育てることに力をそそいだようです。

(3)謙虚に学ぶという姿勢が強く、問題を提起する能力にすぐれ、そして問題解決のための行動力がはやいこと。

(4)お金を自らためこむのではなく、お金の使い方、生かし方にすぐれた能力を発揮したこと。

(5)人脈・ネットワーク、信頼関係を重視した運営を行ったこと。そして、相手の立場に立った考え方ができること。

(6)反対勢力に改革を粘り強く説得し、正攻法で突破したこと。

(7)身分の区別を問わず、組織力を高め、情報公開に努めたこと。

等々・・・


違いといえば、生まれ育ちでしょうか・・・

直江兼続は、すぐれた人材ということで、上杉景勝に認められ、登用されて、藩政の最高責任者にまでのぼりつめた人でした。(戦国という時代背景もありますが)

一方、上杉鷹山は、生まれながらの殿さまでした。秋月家(九州、高鍋藩3万石)出身ですが、上杉綱憲のひ孫にあたります。上杉綱憲は、ご存知、吉良上野介の息子で、上杉家に養子にきました。母の兄である、上杉綱勝の急死により、急きょ、上杉家の養子になりました。この時、上杉家は、手続き上、15万石に減らされています。本来でしたら、後継ぎ不在でしたので、とりつぶしのところでしたがそれはまぬがれました。上杉綱憲は、室町時代の扇谷上杉家(関東管領)の血をひいており、また、正室が、徳川光貞(紀州藩主で、徳川吉宗の父)の娘、栄姫でした。徳川吉宗は、義理の弟にあたります。当時の華麗なる一族といったところでしょうか・・・もっとも、徳川吉宗が8代将軍になるのは、これからまだ30年くらい後です。

華麗なる血筋ではありましたが、米沢藩の財政は、15万石に減封を境に、大きく傾いていきます。吉良家からの養子の、上杉綱憲のときに大きく傾いた財政を、ひ孫の鷹山が、あらためて養子に来て、立て直すという因果は、なんとも皮肉なものかもしれません。


米沢藩の歴史全体でみれば、藩祖は上杉謙信、藩の(雇われ)創業者は直江兼続、藩の中興の祖は上杉鷹山といったところでしょうか・・・

次回からは、さまざまな歴史上の人物を「経営者」という感覚でとらえていきたいと思います。


上杉鷹山は、直江兼続を改革の“師”として尊敬していました。


直江兼続は、戦国大名(直江山城守)として有名ですが、上杉景勝の家臣でありながら、豊臣秀吉から米沢30万石を貰っています。上杉家は、この兼続の30万石と併せて、121万石で、越後(90万石)から、会津へ移りました。秀吉が病没する、約半年前のことでした。太閤検地等での豊臣政権での功績を認められてのことでした。


兼続は、前半生は「軍師」として上杉景勝を補佐し、徳川家康に宛てた「直江状」といわれる手紙や、上杉謙信の軍略の愛弟子とまで言われた、知略に長けた武将でしたので、「軍略に長けた戦国大名」とのイメージがありました。この、軍略家としての顔は、関ヶ原の戦いまででした。


兼続は、関ヶ原後、政治家としての手腕を発揮しました。まず、外交です。西軍に味方しましたが、徳川家康が上杉家をとりつぶす気がないことを確認した上で、石高の交渉を開始します。毛利家が、120万石から30万石に減封されたのを例に、米沢30万石を獲得します。30万石は、この当時は、10数番目に大きな大名でした。


次は、産業の振興政策です。家臣を一人も削減しなかったため、食いぶちを増やさなければなりません。外務大臣から一転して、経済産業大臣と農林水産大臣です。

越後時代は、(養子先の)の与板城の城主としての顔もありました。自身の家臣団を持っておりましたし、城域では新田開発や農産物増産のための用水路の設置工事や、特産品の開発といった施策を実施しています。

今度はそれらの経験を、米沢の地において実行したわけでした。

結果的には、30万石を、実質50万石にしたと言われています。それらの施策はすべて記録に残されています。


兼続は、このように、功績から判断すれば「米沢藩の雇われ創業者」ともいうべき人物ではないかと思います。

上杉鷹山は、彼の改革を、藩の記録を読んで、くまなく調査しております。時代背景的には、兼続の時代は、戦国時代の終焉により、農産物を増産するにはどうすべきかといった施策が優先されました。150年後の鷹山の時代は、前に述べたとおり、貨幣経済の発展により、付加価値の高い新製品が必要であったことでした。


また、鷹山は、兼続の名誉回復も行いました。のちのちの兼続の藩内の評価はそれほど芳しくなかったからでした。やはり、関ヶ原に負けて、大幅に減封された当時の、最高責任者でしたので・・・ しかし、鷹山は、兼続が藩内改革の功労者であることを認め、名誉を回復するため、法要を復活させています。直江家は、(子を先に亡くした後、養子をとらないという)兼続自身の意志により、断絶していました。断絶はしましたが、家老時代に育てた人たちがその後藩政の中心となり、「直江閥」などの呼び方もあったくらいです。


ここで、鷹山が一番学んだのは、兼続の「むらづくり 人づくり」の考え方ではないかと考えております。

次回では、鷹山と兼続の共通点等を抽出し、「リーダーシップ」について考察します。


余談で、今回は、大石りく の話を少しばかり・・・  大石りくは、ご存知、大石内蔵助の妻です。元禄時代という平和な時代に、彼女ほど、運命にほんろうされ、波乱万丈の生涯を送った女性はめづらしいと思います。浅野内匠頭の刃傷事件がなければ、赤穂藩という裕福な藩(塩の売上が好調な会社)の、重役(家老)夫人として、なに不自由のない生涯を送り、歴史にも登場することがなかったと思います。生まれは、但馬、豊岡藩京極家の家老、石束家に生まれ、大石内蔵助に嫁入りしました。子宝にも恵まれ、静かに暮らしておりましたが、例の刃傷事件で、生活が一変しました。赤穂藩とりつぶしのあとは、山科へ移り、内蔵助から離縁(吉良邸打ち入り後に、類が及ばないようにするため)された後は、豊岡の実家に、次男、長女とともに移ります。この時、三男の、大三郎が生まれています。そして、吉良邸打ち入りでは、夫と長男(主税良金)を失い、さらに、追い打ちをかけるように、次男と長女を病気で亡くします。りくのそばには、三男;大三郎と、養女として預けた後引き取った、二女の2人になりました。そんな、失意のりくのもとに、広島、浅野家からオファーがきました。「大三郎が成人すれば、1500石で召抱える。」といった内容でした。りくに希望のあかりがともりました。約10年後、13歳で元服した大三郎は浅野家に召抱えられ、二女と3人で広島に住みました。ちなみに、大石という姓は、先の離縁が、類を及ぼさないためのものであるということが、幕府にも認められ、3人は、「大石」姓を復活しました。

なお、大石内蔵助が、「吉良邸打ち入り」の際に立てた「軍略」を後日紹介したいと思います。

上杉鷹山と細井平洲の改革は、「まちづくり」と「ひとづくり」を目標としていました。


このたびの、東北大震災の復興目標とよく似ているかも知れません。同じ東北の地で約250年前に行われたことでした。

改革案の骨子は、江戸商人が不況乗り切り時に使ったと言われる、「四方よし」の考え方です。

・始末

・算用

・才覚

・信用

「始末」とは、字のとおり、節約すること。

「算用」とは、財政のことで、とくに、不足分を明確にする(現状認識する)ことです。

「才覚」とは、リストラによる減量経営ばかりでなく、国を豊かにするために殖産興業に打って出るという考え方。

「信用」とは、「他人への思いやり」がメインになります。現場改善の指導の際、5Sという手法があります。これは、整理・整頓・清掃・清潔・躾(しつけ)のこと(5S活動を、内容に応じて3S、4Sと称しているところもあります)で、とくに、5番目の「しつけ」(みんなで決めたことはみんなで守る。そして、相手の立場に立ってものを考える。)は、ここで言う「信用」につながります。


「始末」と「算用」がどちらかといえば、ハウツーの話ですが、「才覚」と「信用」は、考え方や気づきといった内容を含んでおり、マネジメント教育的な内容になりますので、この中で重要視されるのは当然です。

鷹山と平洲は、藩内のすべての人々(武士だけでなく、農民、町民に至るまで)に人材教育を行います。この時、「学んだことが役に立たなければ意味がない。」ということで、「気付いて、アイデアを出して、考え方をまとめる。」といった「才覚」と「信用」の教育に時間がさかれたものと考えられます。

現在で言うところの、「リーダーシップ」や「コーチング」の教育といったところでしょうか・・・

私がホームページで紹介している、「経営改善計画」にもつながっている考え方です。

さて、教育の場が必要ですね。藩校「興譲館」を設立しています。実はこの「興譲館」の所蔵する書物は、米沢藩創成期の時代の人、直江兼続が、かつて持っていた書物が非常に多いのが特徴です。


次回は直江兼続と上杉鷹山について、話を進めたいと思います。


余談です。NHKの大河ドラマは、よく見ております。とくに戦国期のころは好きです。昨日も「江」を見ました。運命にほんろうされながらも、強く、たくましく、前を向いて、そして美しく生きていく姿(ドラマなので、多少脚色し美しく描かれているのでしょうが)には感動します。主人公の「お江」という人は、後に8歳年下の「徳川秀忠」に嫁ぎ、子の徳川家光が生まれます。徳川家光の乳母と言えば、ご存知「春日局」です。お江が、後年深く関わりを持つことになる女性です。春日局は、本名は、斎藤ふく、明智光秀の家老;斎藤利三(としみつ)の娘です。ちなみに、この人の息子は、稲葉正勝で、稲葉家は幕末まで続いています。この人も、運命にほんろうされますが、強く、たくましく、美しく生きた戦国女性の一人です。「江戸大奥」を創業して、しくみを作った人として有名で、悪く言われる場合もありますが、彼女の頭の中には、実の母であるお江以上に「家光」のことしかインプットされてなく、創成期の江戸幕府にとっては、最高の功労者の一人といっても過言ではないと思います。

次回をお楽しみに・・・

上杉鷹山は、人材教育に熱心な殿さんでした。領民をわけ隔てなく教育しました。


前回で、藩内に絹織物の生産のしくみを作ったと申し上げました。生産のしくみができても、それを動かす人材がいなければ、しくみは成り立ちません。(別に、ISOの審査をしているわけではありませんが・・・)

当初は鷹山自身がマネジメントを行ったと思いますが、大きな組織となっていくにつれて、一人では手に負えなくなるのは目に見えています。

つまり、藩(会社)の創成期から成長期へと発展する段階では、将来を見越して、人材を教育し現場のマネジメントを行わせ、自分がいなくてもやっていける「自立した組織」を作る必要にせまられたわけでした。


俗に、世の中、社長(経営者)の仕事は、「営業と教育」と言われています。私のように、自分ひとりで自営業をやっている人間は、自分でとってきた仕事を自分でこなせばそれですみますが、人間一人でやれることには限界があり、ある以上の発展は望めません。社長は営業でとってきた仕事を社員に自分に代わってやってもらなければならないわけで、そのために人材教育を行うわけです。


現在の会社経営では、事業を発展させるために「事業戦略」を立案しますが、その戦略を実行するにあたって、戦略遂行をしたささえする、人材教育プランがかならずあります。経営者たるもの、ゴーイングコンサーンを確立するためには、後継者育成も含めて、人材教育の大切さを身にしみてわかっています。


さて、上杉鷹山の話にもどります。鷹山は、人材教育の指導を行う人(インストラクター)として、尾張出身の細井平洲に白羽の矢をたてました。細井平洲は、西条藩(愛媛県にある小さな藩ですが、紀州藩の支藩で、ここの殿さまが紀州藩の太守になることもあります)や尾張藩で講義・指導を行ったこともある、当時としては、売れっ子の学者さんでした。


学者さんでしたが、ただ単に、自分の考えや知識を教えるだけの人ではありません。「学んだことが役に立たなければ意味がない。財政が苦しい状況を、教えるほうも、教えられるほうも、きちんと知ってこそ実学となる。」という、「実学」を重んじた、熱血漢あふれる「実学」の指導者でした。


鷹山が平洲に白羽の矢を立てたのは、彼のそんなところを評価してのことでした。鷹山は、平洲の居宅までわざわざ(かごに乗って)出向き、依頼しています。町人宅に米沢の殿さまのかごが来た ということで、近所の人はびっくりしたそうです。


そうして、細井平洲は、現在でいうところの「人材養成コンサルタント」として、米沢藩と1年間の顧問契約をし、米沢に赴任しました。


次回は、上杉鷹山と細井平洲が、米沢でどのような人材教育をおこなったかの話をします。