福岡(博多)に来て10日になります。

海の幸、山の幸が新鮮で、とてもうまいです。友人のすすめの「ゴマサバ」を食べました。お酢で〆た「きずし」ではありません。お造りです。いかや明太子もいいですね。私の好きな焼鳥屋さんも多いです。なべは冬の楽しみにしましょう。焼酎の種類の多いこと、感激です。また、ラーメンと言えば「とんこつラーメン」です。しょうゆラーメンはほとんど見かけません。安くて、ボリュームがあり、おいしいこと、はまっています。石を投げればあたるくらい、ラーメン屋さんの多いこと・・・「とんこつラーメン」の本場です。「長崎ちゃんぽん」も楽しみです。


と言うわけで、グルメからスタートしました。テレビやインターネットで情報を得たり、観光地図を入手して街中を歩いてみたりと、毎日が発見の連続です。

住まいは、博多駅前の1Kのマンスリーマンションです。少し古いですが結構快適です。家賃の先払いは少しきつかったですが・・・職場までが歩いて10数分程度で便利です。

博多駅はさすが、九州の玄関口というだけあって、九州内のどこに行くにも便利です。鹿児島でも新幹線で1時間半程度、鉄道網、バス網の拠点です。暑さのため、現在は遠出を控えておりますが、9月くらいから、各地の歴史めぐりや観光めぐりをしようかなと思っています。それまでは、博物館めぐりかな・・・

但し、仕事が結構忙しくなりそうで、外遊もあり、浮かれてばかりはいられません。仕事に来ているわけですから、どれだけ時間がとれるかは不透明です。


さて、博多に来てみて感じたこと・・・

・親切な人が多いです。職場でも街中でも、食事をするところでも・・・さすが人情味の厚いまちと言えます。

・お祭りの熱気はどこも同じかな、熱さはいつ見てもほほえましいですね。

・物価は、大阪よりも若干安いかなといったところです。

・女性の化粧は大阪や東京と比べて控えめな感じの人が多く、「自然派美人」が多いですね。また、女性で背の高いスラットした人が多いのが目立ちます。

・野球の話。居酒屋で、「今日は勝っているか? ピッチャーはだれ? ホームラン打ったか?どうや?」という話をよく耳にします。大阪でしたら、当然、「阪神タイガース」のことですが、こちらでは、「福岡ソフトバンク・ホークス」のことです。現在、パリーグの首位を走ってますので、意気盛んです。野球中継も、ホーム・ビジターにかかわらす、ホークスの中継がほとんどです。

・仕事の話を少し。ある財団の中にデスクがあり、公的な仕事をしていますので、「役所」にいる雰囲気です。

内容的には、本職のマネジメント・コンサルタントの知見・経験が大いに生かされてます。詳しい内容は追々紹介するとして、(私は)3年前まで会社員をしてましたが、組織の中へ戻ってサラリーマン的な仕事に戻ったようなです。来年3月末までこの仕事が続きます。


今週は、「山笠」です。博多の夏を楽しみます。では・・・・・・・・・・

歴史上の人物を「経営者」という観点で捉え、私の独断と偏見で論述してきました。

政治的な業績よりも、「経営者」としての活動・業績を主に紹介してきました。

リーダーとして、

 ・どのようにリーダーシップを発揮したか

 ・組織やしくみをどのようにつくっていったか

 ・人をどのように育てたのか

といったような、人間的な側面を前面に出して解説しました。

政治的には大きな業績をあげていなくても、経営という観点から評価できる人で、また、人気があまりなく、どちらかといえば嫌われている人も取り上げました。

登場した人には、官僚型、教育者、組織としくみづくりに一生懸命取り組んだ人、国際派、経済政策の推進等、さまざまな事例を取り上げたと思います。現在に通じる考え方も多数あったかと思います。また、信頼関係に基づくネットワークを大事にし、トップを支えた片腕や協力者、部下が多数いたことも重要なことでした。取り上げた人たちは、一見関係ないように見えますが、「常に新しいことにチャレンジし、新しいしくみや組織を作っている。」という共通点があります。


ここで、現在の経営者が必要とする感覚をあげます。

①国際派感覚(日本国内だけでなく、世界へ目を向けること)

②しくみと組織づくりが大事である

③人づくりとまちづくり

④リーダーシップ

⑤コーティング(自ら学び、そして人へ教える)

⑥これからは、地方の時代と中小企業の時代

 (多様性というキーワードがあてはまると思いますが、中央目線より地方目線が、大企業目線より中小企業目線が必要であると考えております。私の好きな言葉に、"Small think fast."ということばがあります。政治は中央より地方を先に、また経済政策は大企業より中小企業のことを先に考えてくださるように望みます。)

などがあります。


私は、仕事の関係で7月1日より、九州、福岡に参ります。約9カ月間の長きにわたる滞在になります。

ブログでは、歴史の話をいったん中断し、次回より、「九州滞在記」を報告したいと思います。

歴史関連も当然含まれますが、グルメ、観光はじめ土地のこと、身の回りのこと、おもしろそうなこと、そして仕事のことなど、さまざまなトピックスをとりあげる所存です。

よろしく・・・



春日局は、江戸幕府の運営のしくみを文書化することを、裏で支えた人物と言えます。


 江戸幕府の運営の基礎は、3代将軍徳川家光の時代に固まったと言われています。家康存命のころは、家康の裁定が優先されました。2代目秀忠の時代には、優秀な家臣(土井利勝ら)が将軍を補佐してなんとかやってきました。3代目家光の時代になりますと、家光の小姓をしていた人たちが、政治の官僚(老中)として中枢に君臨し、武家諸法度等の「法律」が定められました。

 当初、小姓の中でも年長の、稲葉正勝(春日局の息子)が存在感を発揮し、忠長(駿河大納言)事件はじめ、難問題の解決がなされました。残念ながら、稲葉正勝は若くして病没し、その後江戸幕府の中枢をになったのが、やはり小姓組の、松平信綱(伊豆守)や阿部忠秋、少し遅れて、堀田正盛(春日局の義理の孫、春日局の夫(稲葉正成)の先妻の娘の子で、春日局の養子となる)らでした。

 家光の小姓たちは、元服するまでは、春日局の教育をじかに受け、いわば子飼いの人たちと言えます。

 稲葉正勝のときには、まだ文書化された法律がなかった(正勝が優秀な人だったので文書化する必要がなかったとも・・・)のですが、松平伊豆守らが中心となって、武家諸法度、公家諸法度はじめ、すべての階層の人たちに対して、文書化した「法律」を定め、幕藩体制の基礎を築いたわけでした。


 春日局が、政治に関与した件として有名なのが、3代将軍の後継者問題のときでした。秀忠や江(家光の父母)は、弟の忠長を次期将軍にしたかったようです。当時は、戦国のなごりもあり、必ずしも長子が相続するとは決まっていなかったようです。春日局は大きな危機感を抱き、家康に直訴して、結果的に家光が認められました。

 春日局は、将軍家光の絶大なる信頼のもと、将軍や幕府官僚となった小姓たちをバックでささえ、江戸幕府の基礎固めに貢献した女性政治家と言えます。


 春日局の本名は、斎藤福(ふく)、丹波国、黒井城(現、丹波市春日町)で生まれました。父は、斎藤利三(明智光秀の家老)で、1万石程度の小大名です。徳川家の乳母の公募に応募して採用され、徳川家光の乳母になりました。ちなみに、秀忠正室の江は、浅井長政の娘で、大大名の娘ですが、徳川家の中では、正室と乳母ということで身分の違いは明らかでした。しかし、江の死後は、従二位で春日局という官位を貰いました。従二位は、平時子(平清盛の妻)や、北条政子(源頼朝の妻、息子実朝の死後は将軍職を代行して、尼将軍と言われた)と並び、女性政治家としては位がかなり高いです。

 また、家光から3000石を貰った、旗本でもありました。息子の稲葉家は、山城、淀藩10万5000石で幕末を迎えています。また、養子の掘田家は、下総、佐倉藩11万石で幕末を迎えています。いずれも、多くの老中を輩出しています。譜代大名としては大きめで、特殊な存在だったようです。徳川幕府での功績が大きく認められたため、春日局の子孫は、(不祥事を起こしてはいますが)とりつぶされることもなく、幕末まで存続しています。


 飛ぶ鳥の勢いの春日局にも、大きな悩み事があfりました。それは、家光に子がなかなかできなかったことでした。結果的には4代将軍家綱がやっと生まれて、間もなくして春日局が病没することになりました。

 大奥は、将軍の後継を生み出すために誕生した「組織」で、春日局が創設しました。ちなみに「大奥女中法度」も定めております。

 家光はどちらかといえば、「冬彦さん」的な、マザコンタイプの人だったかもしれません。実母(江)ではなく、乳母(ふく)に甘え、頼り切った生涯を送ったようです。若い時の家光は、面食いなのかどうか知りませんが、女性にあまり関心をしめさなかったようです。ふくは、大奥で、かなりあせりもあったようで、自身の親族を含めて次々に女性を紹介しますが、なかなか受け付けてもらえなかったようです。家綱の母、「お楽の方」は、家光の数少ない好みの女性だったようです。ふくが病没する前に、なんとか家光の子ができて、ふくも幸せだったのでしょう。

 ふくの死後は、どういうわけか一転して、家光は側室を多く持ちました。「お夏の方」との間に、綱重(6代将軍家宣の父)が生まれ、また、「お玉の方(桂昌院として有名)」との間に、綱吉(5代将軍)が生まれています。


 春日局は、新しく時代が変化する中で、江戸幕府のしくみづくりに貢献し、人を育てたという功績は、評価に値すると思います。


次回は、まだ決めてませんので、あ楽しみに・・・

大石内蔵助は、元禄の平和な時代に、山鹿流兵法を実践した人でした。


元禄の時代になりますと、戦国の時代から80年ほどたっています。当時は江戸で軍学がはやっておりました。戦国の合戦や軍師(黒田官兵衛や竹中半兵衛といった人が有名です)の言行・行動を研究材料にして、いわば結果よしという議論であって、軍略をたてて実践するといったものではありませんでした。

大石内蔵助は、山鹿素行から直接教えを受けております。「吉良邸打ち入りプロジェクト」を計画し、みずからボスとして指揮し、プロジェクト計画を遂行し、成功した人物で、いわば「軍事指揮官」として有能な人物でした。


彼の計画の一端をのぞいてみます。

目的:吉良上野介の首級をとることで、主君;浅野内匠頭の仇を打ち、武士として面目(忠義)を施す。

組織力:独自決行派や急進派をおさえ、仲間として一枚岩となって目的を果たすこと。意識を一つにまとめて、団結を強調した。また、武士道を前面に出し、幕府に逆らうという「非合法なプロジェクト」に対して、「赤穂義士」を強調し、精神的に卑屈になることを払しょくした。

外部環境:世論の後押しがあった。「浅野内匠頭が切腹、吉良上野介はお構いなし。」といった、武家諸法度に定められた「喧嘩両成敗」でない幕府の裁定に対して、赤穂藩への同情的な風潮があった。

掟を定める:10の訓戒を定め、公儀に対して目立った行動を慎むことや、打ち入りまでの心の準備をするように戒めている。また、上野介の首級を打ちとった人がすべての功績を独占するのではなく、打ち入りを行った者全員の功績として、役割分担を入念に行っている。

武器の調達:槍、刀といった兵器だけでなく、のこぎり、かなてこ、金づちなどの大工道具やはしご等も準備し、打ち入りに備えている。事実、打ち入りでは、門や雨戸等を破壊しなければならない。

情報収集;吉良邸の図面の入手、上野介の顔の確認、上野介在宅の確認(茶会の情報入手等)。これがいちばんむずかしかったのだか、巧みにやってのけた。

等々、

入念な計画が立案されています。


「吉良邸打ち入りプロジェクト」は、大石内蔵助という卓越したリーダーが存在したおかげで成功したといっても過言ではないと思います。また、戦国時代の軍略のよいところが最大限に生かされ、実践されたという意味では、戦国時代の軍略の集大成といった意味があるのかもしれません。


テレビドラマのフィクション時代劇で、藤田まこと主演の、「必殺仕事人」という番組がありました。主人公の中村主水は、南町奉行所の同心で「昼あんどん」と呼ばれたリストラ寸前、役立たずの役人でした。この人が、刀を持てば、○○新陰流の達人で、夜の稼業では、悪人を次々になぎ倒します。この番組のもう一つの見どころは、主水が家に帰れば、養子先の姑さんと、奥さんに徹底的にいじめられることです。このアンバランスさがこの番組の魅力です。

このアンバランスさが、なにか大石内蔵助に似ているというか、中村主水のモデルになったような気がします。

大石内蔵助は、赤穂藩では家老でしたが、政治家や官僚としては凡庸で、「昼あんどん」と呼ばれています。藩政は、塩の利上げが好調で、大野某という、財政に長けた家老が実務を握っておりました。内蔵助は、なにげなく軍学に興味をもっていたものと思われます。それが、非常時(赤穂藩とりつぶしの後の、吉良邸打ち入り)に役に立つ結果となり、歴史に名を残したといえます。


次回は、江戸幕府の初期のころ、しくみづくりに貢献した春日局の功績を紹介します。なにも大奥だけではありません。

なぜ平清盛が国際派感覚を・・・、そう日宋貿易を復活した人なんです。


日本と中国の正式な貿易は、900年頃でしたか、菅原道真が時の天皇に、「もはや唐に学ぶものはない。」との理由で、遣唐使廃止を進言して受け入れられています。確かに唐は907年に滅んでますので、見た目にはこれでよかったのかもしれません。

学問の神様(トイレの神様ではありません)として崇められている菅原道真のことを悪しざまに言うわけではありませんが、彼は国際情勢に、うとかったのではないかと思います。中国は唐が宋に王朝が変わっていますが、文化の発展が決して停滞したわけではありません。当時の世界では、ヨーロッパと並んで、中国は文化先進国の一つであったことに全く変わりがありません。日本では作れないようなものをたくさん作っております。


桓武平氏(伊勢平氏)出身の武家の棟梁である平清盛は、先代(忠盛)以来、瀬戸内海の制海権を握っております。宋との貿易で莫大な利益が得られることは当然、熟知しておりました。

中国(宋)で生産される、絹織物、宋銭(銅銭)、工芸品、陶器等を中国から輸入し、貴族階級に売りつけることで莫大な利益が得られます。ただこの時に中国側に支払う代金は、日本国内で生産される、極めて貴重な、金や銀でした。

平清盛は、日本国内で苦労に苦労を重ねて生産される金や銀が湯水のごとく流出することに、非常に危機感を感じておりました。そこで一計を講じたわけでした。

中国(宋)から陶磁器の職人を日本に招いて、技術指導をしてもらい、日本で生産できるようにする。そして、生産した陶磁器を中国(宋)へ逆輸出する。それによって、金や銀の流出を少しでも抑える といった構想を持ちました。

この話を聞いて、私は、現在にも通じるすごい考え方であると思いました。

現在の共産党政権下の中国を見てください。鄧小平が30年ほど前に始めた改革開放路線です。安い人件費を武器にして、世界から技術と資金を集め、いまや世界の工場として君臨しています。

平清盛が12世紀に考えたやり方が、逆に中国で、まさに現在使われているわけです。

しかも、中国は、GDPでは日本を超えましたが、「もはや日本に学ぶものはない。」なんてばかなことは、一切言っておりません。日本の高いものづくり技術を、高く評価しております。

「腐っても鯛」ではありませんが、日本はまだまだ落ちぶれておりません(政治は知りませんが・・・)。日本の高いものづくり技術や、品質管理をはじめとした経営管理技術を学びたいというという国は、中国だけでなく、アジア各国、欧米の国も多数あります。省エネ技術もそうですね・・・


さて、歴史の話をしましょう。平清盛は、日宋貿易をする港として、大輪田泊(現在の神戸港の西側)を新たに建設しています。当時、京に近い港としては、尼崎港がありました。ここは、摂津源氏出身の源頼政の配下の渡辺党と言われる人たちが支配していました。平清盛には源頼政への遠慮があって、福原(平家一門の邸宅があった)に近い、大輪田泊を開発したのかもしれません。

源頼政の話を少しばかり。平治の乱の折、平清盛は、源義朝(河内源氏出身で、頼朝の父)と戦いました。源義朝は、当時平家の要塞「六波羅」を攻めました。平家側の抵抗が激しく、戦況が拮抗しておりました。その際、源頼政は、(かねての盟約どうり)平清盛の味方となり、源義朝を攻めて、勝敗が決着しました。源頼政が「源三位」(三位以上は、天皇に拝謁できる高位で、ちなみに、江戸時代の春日局は、正二位)と言われるのは、平清盛がこの官位を与えたからです。


平清盛は、海外貿易の利益を背景にして、武家政権の先駆けとしての政権を確立しました。「奢れるもの久しからず。」などと揶揄されましたが、以降、江戸幕府まで、武家政権が続きました。


次回は、あちこち飛びますが、大石内蔵助の吉良邸打ち入りの際の、山鹿流兵法の話をします。