◆祭装束(着物)◆ | 頑固オヤジの、ばり雑言!!

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真っ当な、和の文化を残したいもんだわさ。
 
劣化し続ける和文化に警鐘を鳴らすべく、
思いの丈を書き綴った強面親父の言いたい放題!

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今回のコロナ騒動で、東京の祭りが軒並み中止。てんで、祭り好きなアタシは出かけることが出来ない。

 

そこでブログだけでも、祭り気分を味わおうと、今日はこんな趣向にしてみましたよ、お立会い!!

 

 

一昔前の神田祭の写真、日本橋室町の天婦羅屋の大将と日本橋の上で・・・・・。

 

 

 

室町の天婦羅屋から旧白木屋(日本橋コレド)向かいの扇子屋の女将に、「室町まで出てきな!」と電話をしたことがあった。

 

その返事は「嫌よ、川向うなんかには行かないわよ!」それを天婦羅屋の大将に伝えると「とに、川向うの奴は、何時もこれだ!!」

 

日本橋のかかる神田川の南が赤坂山王日枝神社の氏子の地域、北側が神田明神の氏子の住む地域。この川を挟んで昔からこう言いあっていたようだ。

 

殆どの東京人が言う川向うとは、隅田川を挟んだ東側、本所・深川辺りをさすが。日本橋では神田川を挟んで、お互いに川向うと言っている・・・・。

 

 

 

一日瓢箪草鞋で歩いていると、作りが柔な草鞋だと一日もたぬ。最近の草鞋は作りが雑で、紐が切れやすい、てんで、予備の草鞋を腰にぶら下げる。

 

 

 

 

室町にちょくちょく行っていた頃は、縁日などの手伝いもした。毎回工房近くの農家に菓子折りを持って竹を貰いに行く。

 

それを車に乗せ日本橋室町・縁日会場のあちこちに、竹を立てた。アタシの後ろ街路樹に重なって見にくいが、竹をおっ立ててある。

 

 

数年前の神田祭の時、顔なじみの神主さんには声を掛けなかった・・・・。後年の神田祭の写真が下、駿河台下の交差点で。

 

 

何時も行く神田三省堂地階のレストランにこの格好で行くと、顔見知りの店員は端、誰だか解らなかったよう。暫し間をおいて、やっとアタシに気が付いた・・・・。

 

 

上の写真は、深川富岡八幡の祭りの時の写真。

 

アタシが二十代の頃勤めていた会社の施工事務所と工場が木場にあった、てぇ訳で、その頃は木場で神輿を担いでいた。

 

昭和の終わりごろから神輿の担ぎ手が少なくなり、他所からの助っ人を頼むようになった。その頃から東京の祭りが汚らしくなった。

 

半纏の上に角帯を締める馬鹿が増えたのもこの頃、一昔前ブログで知り合った鳶の御仁も、そんな形を嘆いていた。

 

その最たるものが浅草の三社、担ぎ手に好き勝手やらせた結果、掛け声がソヤソヤ!とかセヤセヤ!の間抜けなものに変ってしまった。

 

日本橋の町内でもそんな掛け声の処が増えたが、深川富岡八幡の氏子の地域は、今でも昔ながらの「ワッショイ!ワッショイ!」

 

神輿を担ぐ衣装はアタシが担いでいた半世紀前と同じく、町内半纏にハンダコ。本来東京の祭りは褌御法度、長股かハンダコと決まっていた。

 

三社以上に手が付けられない程になった祭りが鳥越、毎年4・5台のバスに乗った機動隊員が祭り警備の為にやってくる。

 

室町の天婦羅屋と浅草奥山の店で何度か会った鳥越の御仁が、「地元の役員をやっているが、怖くて神輿に近づけねぇよ!」と言うくらい、毎回荒れる祭。

 

その最たるものが二長町、そこの神輿を担ぎたくて勝手に似せた半纏をこさえて担ぐ野郎が増えた所為で、数年前から通し番号入りの町内半纏をこさえ、担ぎ手の整理。

 

祭とは浮かれ騒ぐ物に非ず、神事だと言う事を思い知れ、馬鹿野郎!!

 

 

 

上は築地波除さんの祭半纏、築地の馴染みの店の御仁がアタシの為に誂えてくれた物。

 

この波除さんの祭りの日と、品川神社の大祭が同じ日。品川神社の祭りも好きな祭りで、室町の天婦羅屋を誘い、何度か行った事もある・・・・。

 

 

こないだ行きそびれた白金清正公の大祭からの、帰りの写真。風呂敷には浅草の稲荷ずし屋の折りと、馴染みの豆屋で買ったエンドウ豆が入っている。

 

下の写真は、お袋が亡くなった後の清正公の祭りの日、豆屋の店に行く時アタシの半纏の襟にとまったアゲハ蝶。

 

右奥の赤く見える処が馴染みの豆屋の露店、前年は車椅子にのせたお袋を連れて来た・・・・。

 

 

 

芝の神明神社の大祭から帰った処、手にしているのは絵馬のついた神明生姜・・・・・。

 

 

浅草鷲神社の酉の市から戻ったところ、風呂敷の中は雷門・志乃だ寿司の折。浅草へ行くと馴染みのこの店へは必ず寄る。下もお酉さんの時の写真・・・・。

 

 

 

 

近所の自由が丘熊野神社の祭り、人混みが嫌いなので裏から境内に入る・・・・・。

 

祭に半纏を着るようになったのは昭和の40年代から、それ以前の東京の祭りは町内揃いの浴衣を尻っ端折りし、向う鉢巻に襷掛け。

 

それが近頃は何処の町内でも揃いの半纏、てぇ事で、半纏を着ていると必ず「お祭りですか?」と聞かれる。

 

詳しく説明するのも馬鹿らしいので、「違うよ!!」と一言答えて、歩をすすめる・・・・・。

 

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室町の天婦羅屋が小学生の頃、クラスに佃から通ってくる同級生がいたんだと。その坊主が遅刻した時の言い訳は、「佃の渡し船が遅れたから!」

 

 

            祭に因んだ噺、志ん朝の佃祭り