昨日の続きだよ、お立会い!!
碑文谷神社を出て直ぐ裏に公園がある、昔ながらのこの辺りの風情を残した竹林の中・・・・。
これから行く公園から碑文谷神社を振り返ると、御覧の様。この辺りはチョイ前まで、武蔵野の面影が残る雑木林と畑が点在する目黒区では一番開発の遅れた地域。
公園の竹林下にはハナダイコン群生していたのだが、すっかり姿を消し、筍もまだ生えていなかった。
目黒は竹の産地、御覧の様な竹林が彼方此方に点在していた東京郊外の街だった・・・・。
東京のイメージを勝手に作るのは地方人、どこそこはこんな街だとか、○○は高級住宅地とか、良く知りもしねぇくせに、そんな事を言いふらしやがる・・・・。
一番気に食わねぇのが、東京人とはと、付き合ったことも話したことも無いくせに、東京人のイメージを勝手に決めつけやがる。
それにいちいち対応しないのが東京人、「馬鹿がまた勝手な事言ってら。言いたきゃ、勝手に抜かしてろ!」と端から相手にしない・・・・。
数年前の春、保険会社の新入社員が研修を兼ねた営業で、我が家にやって来た。その娘に「保険には入らねえがそれでも良いんなら、上がってお茶でも飲んでいきな」と声をかけた。
この辺りに新居を建てて他所から引っ越して来た御仁達がどうゆう対応をするのか知っていたので、見知らぬ土地での営業がさぞつらかろうと、思ったからだ。
お茶を飲みながらしばし話をした後「芋の煮たのがあるが、食うか???」と問うと、食べるという。そこで新じゃがの煮っ転がしを出してやると、旨い!旨いと良く食った。
「出身地は何処だ??」と問うと「岸和田!」と答えた。そこで「出てくるとき、東京人は冷たいと思っていただろ??」と再び問うと、大きくうなずいた。
そこで「今は如何思う?」と問うと「冗談もよう言うし、大阪のおっちゃんと、同じや!」と笑顔で答えた。その娘は以後何回も我が家にやって来ては、身の上話をするほど親しくなった。
近所のオヤジにも同じように接してもらい、東京人への考えが替わったと言っていた。このオヤジ、開発途上国の東工大留学生に無料で部屋を貸し、卒業するまで面倒を看た気の良い御仁。
東神田の江戸時代から続く和菓子屋の大将も、関西の間借り人に「東京人は冷たいと思ってた」と言われたんだと。この先は、言わねぇよ・・・・・。
毎年この古民家の脇に鯉のぼりが飾られるが、今年はコロナの影響か、入場も出来ず、鯉のぼりも無かった。
田の字造りの典型的な武蔵野の農家、小中学校の同級生の古い家をここに移築したもの。昔は茅葺の屋根だった。
公園を出た処の道が目黒通りの抜け道、都心から戻ってくる時の帰り道・・・・。
我が家から高輪方面へ行く時は右手よりやって来て、サレジオ教会の角を右に曲がる。この日は左に曲がり、目黒通りのホンダへ戻る。
雑木林と畑の間に、御覧の様な木造家屋が点在するのが碑文谷のイメージ。碑文谷と聞くと、昔のこの風景が先ずは脳裏に浮かぶ。
目黒通り沿いのホンダに戻ると車は洗車中、「待っている間、何かお飲みになりますか??」とフロントのお姐ちゃんが問いかけた。
そこで「お前さんのその笑顔だけで、十分だよ!」と答えた後、もう一声。「そのマスクが無けりゃ、もっと良い女なのにな!!」と付け加えた・・・・。
エアバッグを取り替え、洗車をした車に乗り、先ほど歩いた道を我が家へと戻った。洗車をするのは毎年大晦日だけ、春に車を洗うなんて生まれて初めて・・・・。
出た来たホンダを右に行くと碑文谷警察、その向かいのビルにあったデザイン事務所に大昔勤めていた。
銀座ソニービル地階のレストラン・マキシムドパリや、数寄屋橋ショッピングセンター内の店舗などを設計した事務所。てんで、この碑文谷辺りも馴染みの場所なのである。
風呂上がりの追伸!!
風呂に入っていて思い出したことがある、それは一昔前。我が家に新任の警察官が、家庭訪問でやって来た。そこで玄関に招き入れ、奴さんの用件が済んだところで尋ねた。
「お前さん、ここへ来る前は何処に居た?」と問うと「亀有に居ました!」と、渥美清の様なアンちゃんが答えた。
「それじゃぁ、両さんの後輩かい??」と再び問うと、暫しの間を置き「そうです!!」と笑顔で答えた。意味が通じぬ方は(こち亀)で検索されたし。
家庭訪問をしていて、こうして家に入れてくれる御仁はほとんどなく、居留守を使うか、ドア越しに追い払われることが多い言う。
新たな配属先は自由が丘駅前交番だと、「それじゃぁ、虐められているだろぅ??」と問うと「いいえ、良く指導してもらっています!」だと。
その後自由が丘駅に行く時は、交番を覗き、そのアンちゃんが居ると一声かけるのが恒例になった。
どんな御仁とも、気楽に話せるのが東京人だよ。お立会い!!
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