「松井石根と谷寿夫は南京大虐殺を知らなかった」の嘘 | ブログ

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✳️【松井石根の証言】
 松井大将は、宣誓口供書の中でこう述べている。

 「予は、南京陥落後、昭和13年(1938年)2月迠上海に在任せるが、其の間、昭和12年12月下旬、南京に於てただ若干の不法事件ありたりとの噂を聞知したるのみにて、何等斯る事実につき公的報告を受けたる事無く、当法廷に於て検事側の主張するが如き大規模なる虐殺暴行事件に関しては1945年終戦後東京に於ける米軍の放送により初めて之を聞知したるものなることを玆に確信す。

 予は右放送を聞きたるあと、我軍の南京占領後の行動に対して調査を試みたれども、当時の責任者はすでに死亡し、または外国に於て抑留処罰せられ、諸書類は悉く焼却せられたる為め、10年前の過去に遡りて、当時の真相を仔細に吟味証明することを得ざれども、予は南京攻略戦闘に際し、支那軍民が爆撃、銃砲火等により多数死傷したることは有りしならむも、検事側の主張する如き計画的または集団的に虐殺を行ひたる事実は断じて無しと信ず。

 日本軍幹部が之を命じ、又は之を黙認したりと謂ふ如きは、甚だしく事実を誣ゆるものなり。」(法廷証第3、498号)。

 ちなみに、南京裁判で銃殺刑に処せられた第六師団長谷寿夫中将も、「起訴書提示の其他事項に対する申弁」でこう述べている。

 「被告(谷)が南京暴行事件を知りしは、一作歳(昭和20年)終戦後新聞紙上にて一読せるに始まり驚愕せり、該戦闘に参加せし被告さへ全然初めてこれを聴けるなり。」(『南京作戦の真相=熊本第六師団戦記』232ページ)。

 この2人の証言は、信憑性あるものとみてまちがいなかろう。つまり「南京大虐殺事件」なるものは、軍司令官も師団長も知らなかった事件なのである。 田中正明『南京事件の総括』より


✔️【反論《田中隆吉の内部告発》】
 ところが残念なことに、米国立公文書館に保管されていた国際検察局文書に、元陸軍省兵務局長・田中隆吉少将の次のような内部告発が記録されているんです。

 〈問 南京残虐事件に松井大将は関係があるか。

 答 松井大将が命じたものではないが、彼の部下が史上最悪の残虐行為をやったのである。

 問 松井はそれを知ってやめさせる命令を出したと思うか。

 答 あとで松井は私に、やめさせるため全力をつくしたが、力が足りなかった、責任を感じると話した。

 問 松井は責任者を処罰したか。

 答 イエス。しかし処罰は軽いもので、 マネゴト程度にすぎなかった。松井は南京占領と同時に講和しようと考えていたが、この事件でダメになってしまったと語った。

 問 松井は責任者の名前を言ったか。

 答 中島(今朝吾)第16師団長の名をあげ、この部隊は上海の日本商店すら掠奪した、と怒っていた。

 問 ほかにもいるか。

 答 谷寿夫中将、佐々木到一中将である。特に佐々木が悪かった。〉

 これでわかるように、松井石根も谷寿夫も南京大虐殺が巻き起こっていたことを、戦時中からすでに知っていたのです。

【谷寿夫の陳述】
 また谷寿夫は1946年12月18日付の陳誠参謀総長宛の陳述書などの中で、自分と第6師団の関わりは否定しつつも、「被告の関知するところにては、南京大虐殺は、中島部隊の属せる南京攻略軍の主力方面の出来事」と述べており、やはり南京大虐殺の存在自体は認めているんです。

 というお話でございます。

 ところで、松井石根も谷寿夫も南京大虐殺の主犯と名指しする中島今朝吾とは、いったい……。

【まとめ】
 ●松井石根も谷寿夫も南京大虐殺を認めている。