✳️【中島今朝吾の誤解】
洞氏は『南京大虐殺の証明』の中で、第16師団長中島今朝吾中将の日誌に、「大体捕虜ハセヌ方針ナレバ」とあるのを、捕虜の集団処刑が軍命令、師団命令によってなされていたのではないかと推測している。
洞氏にかぎらず虐殺派はおしなべてこの中島中将の「捕虜ハセヌ方針」というのを一般に誤解して、南京の捕虜はかたっぱしから殺害したかのごとく主張するが、決してそうではない。これについて大西一上海派遣軍参謀はこう述べている。
「それは、銃器を取り上げ釈放せい、ということです。中国兵は全国各地から集っていますが、自分の国ですから歩いて帰れます」(「正論」61・5阿羅健一著「日本人の見た南京陥落」)。
さらに大西参謀は軍命令、師団命令で、捕虜殺害命令など絶対に出ていないと断言している。 田中正明〈南京事件の総括 虐殺否定15の論拠〉より
✳️【「捕虜を処理する」の意味】
もうひとつ、南京落城に関して大きな誤解が生じているのは「捕虜を処理する」という文言についてです。当時の日本軍は、捕虜になったシナ人を食わせる余裕などはなかったので、捕虜は原則としてみんな自分の家に帰したのです。そのことを「捕虜を処理する」と表現したわけですが、その記述を読んだ日本人の中には、捕虜を殺してしまったと早とちりをして「残虐」行為の根拠のひとつにした人もいました。捕虜となったシナ兵の多くは、家に帰したわけであり、そのことをシナ兵はとても喜んだのです。(渡部昇一) 小室直樹/渡部昇一〈封印の昭和史 [戦後50年]自虐の終焉〉より
✔️【真相〈中島今朝吾の日記は「ナレバ」で終わりではない】
田中正明も大西参謀もまったく触れていないのですが、中島今朝吾の1937年12月13日の日記には「ナレバ」のあとにもまだまだ文章が続くんです。その一部を引用します。
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……到るところに捕虜を見、到底その始末に堪えざるほどなり。
大体捕虜はせぬ方針なれば、片端よりこれを片付くることとなしたるも、千、五千、一万の群衆となれば、これが武装を解除することすら出来ず。……後に到りて知るところに依りて、佐々木部隊だけにて処理せしもの約一万五千、大平門における守備の一中隊が処理せしもの約1300、その仙鶴門附近に集結したるもの約七・八千人あり。なお続々投降し来たる。この七・八千人、これを片付くるは相当大なる壕を要し中々見当らず。一案としては、百・二百に分割したる後、適当のケ処に誘いて処理する予定なり。
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これを読めば、どう考えても捕虜の処刑のことを書いているらしいことがわかると思います。
【渡部昇一の嘘】
また、渡部昇一は「捕虜を処理するとは捕虜を家に帰らせたことだ」などと言っていますが、「片付くる」という言葉も一緒に出てくることから、その話が嘘であることがわかると思います。
そもそもほかの記事にも書いたことですが、中島今朝吾の日記には「試斬(ためしぎり)という言葉も出てくるんです。もはや言い逃れはできないでしょう。
【阿南惟幾の言葉】
最後に、1937年12月22日の阿南惟幾人事局長の言葉を紹介します。
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「中島師団婦人方面、殺人、不軍紀行為は、国民的道義心の廃退、戦況悲惨より来るものにして言語に絶するものあり」
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【まとめ】
●中島今朝吾は間違いなく中国人捕虜を虐殺していた。
●大虐殺なかった派は、都合の悪い部分は徹底して無視・隠蔽する。