■奇跡に難しさの序列はない(奇跡講座(ACIM)■ | 人生は自らデザインする!

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こんにちは。

今日は「奇跡に難しさの序列はない」について。
(テキストP.36上1)

そもそも「奇跡」とは何か。
わたしが考える奇跡とは
一言で言うと

「自我が理解できない現象」です。


自我は物理世界の法則を元に
原因と結果の因果関係で物事を判断しようとします。

こういう原因があれば
こういう結果になるはずだ

今こうなのだから
こういうことをすれば
未来はこんな結果になるだろう

過去のデータをもとに
今を分析し
未来を推測する

これが自我がいつもおこなっている
「考える」という行為だと思います。


しかし自我にとって
理解不能なことが起きた場合

原因と結果の因果関係を分析できなかった場合
何か特別なことが起きたと「認識」して
それらをひとくくりにして
「奇跡」と呼ぶのだと思います。


そうだと仮定した場合
「奇跡」とは
自分の中の脳内のほんの一部
ちっぽけな部分が
「理解できん!わからん!」と
匙を投げた現象なだけであって

もしかしたら
「特別でも何でもない」
のではないかと思ってしまいます。

自我が理解できないだけで
なんだか「ウソ臭い」「胡散臭い」と
「奇跡」という言葉や現象を定義するのは
早計ではないかと感じています。


では話を戻しますね。


奇跡講座で言うところの
「奇跡に難しさの序列はない」というのは
一体どういうことなのか・・・


「難しさ」を感じるのは「自我」です。

○○することより△△する方が簡単、とか
△△することは××することより難しい、とか

自我がこれまでの経験や価値観を元に
「判断」するのが「難しさ」です。

ですからたとえ同じことであっても
人によってそれぞれ難しく感じたり
簡単に感じたりすることがありますよね。

つまり
人それぞれが持っている個々の判断だからです。
まさに「自我」である証拠です。

奇跡が「自我」では理解できない現象ならば
奇跡は「自我」の認識を超えた部分の現象です。

ということは
人それぞれ、個々の判断を超えているので
「難しさ」という判断は存在しない
ということになります。


「奇跡」というのは
すべての人の「自我」を超えたところに
ただ存在しているので
「難しさ」などという程度を現すものではなく

「そこに在る」「どこにでも在る」
そういうことになるのではないでしょうか。


わたしたちが「自我」で「理解」できる現象なんて
この世にどれだけあるのでしょうか。
少し見回してもわからないことだらけです。

「こういうもんだ」と自我が受け入れているから
理解したつもりになっているだけじゃないでしょうか。

自分が理解したつもりになっている
あるいは認識している世界とは
別のものや現象を見せられたとき
自我はそれらを奇跡と呼ぶのでしょう。

「こういうものだ」と受け入れていることを
すべて奇跡かもしれないと思って見てみると
確かにあちこちに奇跡が在ると思わざるを得ません。


まず第一に
「何故わたしはここに在るのか」
なんてことも奇跡の一つですよね。
考えても理解できないですもん(笑)

ただ「わたしはここに在る」と
自我が受け入れ、そう認識しているから・・・
としか言いようがない(笑)

本当はいないかもしれない(笑)


奇跡に難しさの序列はない。

奇跡講座はこの言葉で始めることによって
自我が認識している世界がすべてではない
自我が認識している世界は真実ではない
自我を超えた世界が確かに存在し
その世界こそが真理なのだと
暗に伝えているのかなと思いました。


きっと何年か後に読み返すと
すごく恥ずかしいのだろうなぁ(汗)

それでも学びの記録として
残していきたいと思います。
ましてや誰かのお役に立てるならば
こんなに嬉しいことはありません。


最後までお読みいただきありがとうございます。


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