◉スピ的つぶやき(2014.10.5~10.20) | 人生は自らデザインする!

人生は自らデザインする!

●ココロとカラダ:本当の健康になるためのヒント
●人生を根本から治療する「ライフセラピー」実践法
●「奇跡講座」や「OSHO」などの難解な教えの解説



わたしが言葉を使うとき、それはもう過去を生きている。今を生きているとき、ただ「在る」ときにはただ「沈黙」があるだけ。内観や沈黙の本当の意味がやっとチラっとわかった気がする。


 疑っていると、現象の中に疑わしいことばかり発見する。信じていると、信じられるようなことを見出せる。結局「現実」というのは「現象」の中に自分が何を見ようとするかによって決まるんだね。それなのに、まるでそれが「事実」であるかのように錯覚してしまうんだろうな。


  「想像」と「妄想」は違うと思うんだけど、何がどう違うのかまだスッキリしないな。「想像」は音の響きから「創造」につながると思う。「妄想」はやっぱり音の響きから「盲」「想」なのかしら。現実を直視できてない想い、とか、道理に反する想い、とか。問答会のお題でも面白いかもしれない。 


どんなことがあっても、自分のせいだ、責任だって思えることは素晴らしい。なぜなら、それは自分次第でどうとでもなるって思えることだから。でも、自分を責めるのとは違うからね。責めてしまうと自分はダメだっていう想いが強化されて、また同じ結果を作り出してしまうから。 


太極図があらわすように、陰が極まれば陽に変じ、陽が極まれば陰に変ず、のように、真逆を進んでいるように見えても、離れていくように見えても、その行き着く先は結局同じなのかもしれないね。科学の最先端と精神世界が同じことを語ってるようにね。 


自信と自惚れの違いについて考えてみた。自惚れは「実際以上に」という意味が含まれるから他者の評価が入ってくるんだね。自分に自信があってもそれが他者から「実際以上」に見えたら、自惚れになっちゃうってことか。つまり他者の評価を気にしないなら、それはいつも自信なんだね。なるほど。


 誰かと誰かが釣り合うとか釣り合わないとか…何をモノサシにしているの?お金?育ち?年齢?学歴?それともヒトとしての器?ヒトは成長するしそのスピードも違うよ。直面してる課題によっても違ってくる。ご縁が結ばれたなら大切にして誠意を尽くせばいい。切れるなら笑ってありがとって言えばいい。 


敬語とか丁寧語って相手を敬ったり大切にする意味もあるけど、相手との距離を感じる表現でもあるよね。失礼にならない程度に親しみを表すのって難しい。口語なら声のトーンや顔の表情があるけどメールだとどっちなのかわからない。受け取る側の気分で受け取りたいように受け取ってしまうから。 


 言葉のまま受け取って疑わないってスゴイ。ちょっと考えたら言外の意味がわかりそうだとしても。それでも疑わないことは余計なこと考えずにすむから苦しまずにすむ。疑うくせがついてると、その疑いが事実だとしても結局苦しいのは疑う本人だ。事実が何かより感情の方が自分を振り回すものなんだね。 


 頭で理解しているからといって実際に行動できるかは別だよ。たとえば誰かの心配をしたところでその人の無事や健康にすることはできないってわかっていても、大丈夫かなってふと考えてしまう。でもやっぱりその度に無事でありますようにって祈りなおすことが大切だと思うんだよね。


 願いを成就するために「何をしたらいいだろう」って考えるのは、失敗したくないから。正解の行動が存在すると思い、不正解を選びたくないという恐れが元になってるから、ちっとも答えは見つからない。でも「こうなりたい!」って強く思い続けてふと頭に浮かんだことは答えのことが多いと思うな。 


道徳とか倫理ってなんだろう?道徳的に倫理的に考えて「してはいけない」ってしないのは、道徳や倫理がなければホントは「したい」ことなの?法律がなくても誰かを傷つけようとしない心の状態でありたい。したいのを道徳や倫理で押さえ込んでもそのエネルギーはきっと心のどこかに蓄積されてるから。 


どうしても受け入れがたい現実がやってくると辛いし苦しい。たとえば大切な人を失ったときとか。人間ってすごいなって思うのは、それでも前を向いて生きようとするところ。どんなに喚いても泣き疲れてもまた立ち上がろうとする源が内側にあると気づけるところ。クライアントさまから学ぶとこだ。 


毎日同じことで誰かに責められ続けると、以前は自分が確信していたことすら揺らいでくる。これが洗脳というものなんだろうね。天は何を伝えてきているのだろう。その確信が本物かどうか試しているのだろうか。それとも責められていることが真実だと言っているのだろうか。ますますわからなくなる。


夜中の3時。また1日が終わり新たな1日が始まる。人は平等に1日24時間与えられているかもしれないけれど、1日の価値や意味、重さは人によって違うものなんだね。明日死ぬかもしれない人と漫然と生きてる人、一瞬一瞬大事にしてる人と、人生諦めている人。今日はどんな24時間にしようかな。


我慢の先には不満があり、辛抱の先には希望がある、という記事を見た。なんとなくわかる気がするけど何が違うのだろう。我慢は変化を諦めてるからすること、辛抱は変化を確信してるからすることかな。我慢じゃなくて辛抱を選びたいな。暗闇にもいつか光が射すと信じて。


最後までお読みいただきありがとうございます。