狭い部屋で長刀を振り回したらどうなるだろうか?何の役にも立たないどころか危なくて仕方がない。同じように、狭い視野や解釈で有名な誰かが言った素晴らしい教えや法則を他人に振りかざしても仕方がない。そこには「自己満足」があるだけだ。あるいは他人のふんどしで誰かを打ち負かしたいのかい?
ものすごくよく切れる刃もそれを用いる機会をつくらなければただ邪魔な道具となってしまう。その道具を何のために手に入れて何のために使うのか?どういうときに使い、何を変えたいのか。定まっていればその道具を持つ手はブレないはずだ。ブレない刃はただそこにあるだけで美しく光り輝く宝となる。
同じ漢字を使うけれど「心配する」のと「心配り」とは全く違う。心配することは、よりその心配を現実化するという引き寄せのエネルギー。心配りとは、自分の「氣」を「手渡す」エネルギー。自分の「どんな」氣を渡すのか、あるいは他の者や物から「どんな」氣を受けるのか、いつも気を配りたいね(笑)
この世は「単」ではない。「一辺」つまり「一方向」からいくら一生懸命見たり考えたところで「真」には近づけない。数々の狭義的思想を学んでも、そこには一番大切なことが抜けている。「全」から見ることだ。「全」から見るためには数々の「単」を捨てる必要があるのだ。暗闇を体験することになる。
自分の中の「真」なる「心」は第3の目で見ようとする。見えるなら探せばいい。これだ!と思うものを。見えないなら見えるようになればいい。いや、ただ見ればいい。見えると思ってみればいい。そして、あると思って探せばいい。あきらめからどんなに「単」の世界を見ても「全」は見えてこない。
自分で自分の進む道決めること大切。決めたらその「光の道」の「光の色」をしっかりと覚えておくといい。毎日の出来事の中で自分の光を見失うと真っ暗で怖くなる。そのときに光を見つけると「見つけた!」と頼りたくなるが「色違い」は「道違い」なのだ。遠回りになる。それもまた悪くはないけれど。
「我が道」を進むのは大切だけれど、「我の道」とは違う道。見た目は似てるけれど。「我が道」は「輪我道」なのではないかな。「我」が「輪」となる道。ころころと回る道。だからうまく運ぶのかな。自分のまわりがうまく運ばないときは「我の道」になっていないかチェックするといいのかもしれないね。
自分らしく生きる道は光り輝く道。輝くから周りは気づくのだ。そして周りの目印にもなっていく。自分を見て見て!とアピールしなくてもいい。自分を大きく見せる必要もない。それはすぐに見破られる。他の誰かになろうとする必要もない。息苦しくなる。自分を見る作業は地味だが光の道でもあるのだ。