清水を飲みたいなら、まず自分のグラスの中身を見るがいい。そこにはたっぷりと濁った水が入っているはずだ。そこに清水を数滴入れたところでグラスの中身は清水にはなりはしない。すぐに清水を飲むにはグラスをまず空にする必要がある。しかし、たとえ濁った水でもすべてを捨てるには勇気がいる。
四角は安定した形だ。転がすには一苦労。「角」があるからだ。頑固に動くのを拒否する。そして角は当たると痛い。円や丸は不安定だ。転がさなくても転がっていく。それは変化し続けるということだ。魂の「たま」も御霊(みたま)の「たま」も玉だからきっと丸いのだ。我々は常に変化を求められている。
「今日は一日頑張った~」と自分を褒めることができるのは素晴らしいけれど、まだそういう一日が自分にとって特別な証拠でもある。そういう一日を「当たり前」として淡々と積み重ねることができる自分になりたいものだ。そうなったらなったで、また新しい特別ができているのだろうけど。。。
濁った水がたっぷり入った自分のグラスに清水を注いでみる。清水を注いだ分だけ濁った水はあふれ出る。しかしグラスの水は濁った水と清水が混じり合い少しだけ清められる。あふれ出た濁った水を「こぼれた!」と大騒ぎするだろうか?当たり前の現象も心や体のこととなるといろんな反応をしてしまう。
どんな人の中にも存在する輝く光の玉。その内なる光とともに生きればきっと内からしみじみと幸福を感じられるのであろう。どこかで気づいているはずなのに何故その光を出せないのだろう?出せばこれまでの自分を守ることができないからだろうか。本来光の玉を守るための自分がその光を閉じ込めている。
発言することは、その言葉に責任を持つということだ。たとえ昔の賢人や有名な人の言葉を引用するにしても、そこには、なぜそのときその言葉を引用したのかというその人の「意図」が必ずある。言葉だけでなく自分の意図にすら責任を持てないのなら発言しない方が良い。中途半端が一番自分を惑わせる。
発言することは、その言葉に責任を持つということだ。たとえ昔の賢人や有名な人の言葉を引用するにしても、そこには、なぜそのときその言葉を引用したのかというその人の「意図」が必ずある。言葉だけでなく自分の意図にすら責任を持てないのなら発言しない方が良い。中途半端が一番自分を惑わせる。
人を尊敬することは素晴らしい。尊敬する人が存在すること自体が素晴らしい。しかし尊敬するあまり自分とその人を切り離していると決してその人のようにはなれない。あなたと同じ「人」なのだ。きっとあなたのように思いあなたのようにあやまちもある。身近に感じられるようになったら、ほら近づいた。