私には、自分の生きていた世界の様相が、まるで、ドラマのチャンネルを突然誰かに切り替えられたかようにして一変した瞬間があります。

 

それはサイババを、サイババ御自身が語っておられるとおりの存在だと信じて疑わなくなった瞬間です。

 

サイババは御自身をいかなる存在だと仰っているかというと、「神の化身だ」と仰っています。

しかし、このことを知った人は以下の言葉も知っておく必要がります。

 

サイババはこう続けておられるのです。

     ↓

「『私は神だ』と言っていることを引き合いに出す人がいますが、それを言うなら、言葉の最後まで言わなければなりません。

私はいつも『あなた方も皆、神だ!』と言っています。

私とあなたの違いは、私はそのことを知っているが、あたはまだそれを知らないということです(これは、日本人になじみのある言い方に変えると『梵我一如』ということです)。

私は何千ワットもの電力で輝いている電球で、あなた方はそれぞれの霊的な成長の程度に応じて10ワット、20ワット、40ワット、100ワットと異なった電力を受け取って輝いている電球のようなものです。
それぞれ輝く明るさは違っていますが、忘れてならないのは、輝く明るさは違っていても、それぞれの内面を流れ、電球として輝かせている電力というエネルギーは全く同じものだということです。

すべての人の中にある光、それは神です。
私はこのメッセージを世に伝えるためにやって来ました」

 

「だから私は時々、私が誰であるかを明かすために、あなたがたが『奇跡』と呼ぶもの、…私の《名刺》を見せるのです」

 

私はサイババを神の化身だと信じるようになった後の人生で、それまでは現実の世界でそんなことが起こるなどと考えたことのなかった、多くの謎めいたことを体験してきました。

 

この記事はそのことについて書こうとしているのですが、私がサイババの帰依者として体験して来たものには20~30年前のものもあり、そうした体験は否応なく記憶としの鮮度、事実としての精度を落としています。

なので、できる限り正確な記事にするためには、その頃の体験について記録していたものを読み直す必要があると感じていました。

手元には、そうしたものの多くがデータとして入っているUSBがあります。それは、私が昔ごく少数の知人に体験記として書いて送っていたもののデータです。私はそうしたものをoasisというワープロで書いていたので、データそのものは残っていました。

問題は、それを読み取れるワープロはとっくの昔に姿を消していることでした。

それをPCで読み取るための変換ソフトは持っていたのですが、それはWindowsXPをOSとして搭載しているPCでしか作動しないものだったので、読み返すことをあきらめていました。

ところがちょっと前、XPをOSとして搭載している中古のパソコンが売られていることを知り、ダメもとで購入したところ、何の問題もなく読み取れるようになりました。

 

というわけなのでそれを読み直しながら、これから少しづつ、その頃に体験していたことについて書いてみようと思っているのですが、何分量が多く、ちゃんと書こうとすると本一冊分の文字量や手間暇がかかりそうなので、とりあえず、伝わるかどうかは度外視して(そうしないと書けないので)少しずつ書いてみようと思っているところです。

 

 

すべての始まりは、サイババに導かれるようにして古本屋のある路地に迷い込み、そこで『理性の揺らぎで』という本を買ってしまったことでした。

帰宅してそれを読み終えたときにはすでに、サイババを信じていいのではないかと思うようになっていました。そして、手に入る限りのサイババ関連の書籍を買いあさり、すべてを読み終えた後は、サイババを神の化身であるとかなり確信をもって信じるようになっていました。

 

とは言うものの、統一教会やオウム真理教などのカルト宗教の恐ろしさをいやというほど見せつけられてきた私にとって、日本にあるサイババ名を冠した団体に対しては、危機管理という点から近づくべきではないと警戒して、一切接触していませんでした。

そんな状況の中で、私の中に芽生えた「サイババの説く真理とは何なのか? サイババとはいかなる存在なのか、その真実を知りたい!」という思いは日に日に強まっていきました。

 

そんな自分に”自分にできること”として思いついたものは、『社会から隠遁するようにして、一人部屋にこもって行う瞑想』 以外にありませんでした。


そうした瞑想主体の生活に入ってからの私は、『孤独』 というものを一切感じなくなっていました。

孤独というものを一切感じることがなくなり、それがどういうものだったかも思い出せなくなっていたある日、それがどのようなものだったかが何となく気になって、私は一度だけサイババに 「孤独とはどういうものだったのかを、もう一度思い出させて下さい」 と祈ったことがあります。
 

その願いはかなえられ、私の心にはそれが蘇り、心が悲鳴を上げて崩壊しそうになるほどの苦痛に陥り、二度と思い出したくないと祈りました。そして、二度とそれを思い出すことのないまま今日に至っています。

しかし、人が単に孤独を感じなくなっただけでは、一日5時間以上の瞑想を、一日も休むことなく何年間も続けることはできません。

私がそういう生活をできたのには、もう一つ大きな理由があります。

それはサイババを瞑想しようと心に決めた瞬間から、瞑想が呼吸のように、私にとって最も自然で不可欠な生命維持活動の一部になっていったということです。

一日の瞑想は起きた直後と夕方か寝る前の二回に分けていました。最初の瞑想は1時間十分程度が限界でしたが、その間は集中力が切れて意識がさ迷うことなく、気が付くと1時間以上が過ぎていました。

瞑想の終わりは常に蓮華座を組んでいた足の痛みとともにやってきました。足の痛みは、蓮華座に組んでいた足を崩して数分間休めばとれていたので、その後再び蓮華座を組んで目を閉じて座り、集中力が切れると蓮華座を解いて数分間休み、さらに蓮華座を組んで目を閉じて静かに座るということを続けていました。


瞑想を始めたその瞬間に感じたことは、自分の中にもう一人の自分がいるという明確な感覚でした。

そして、光の中に自分が溶け込んでいくという経験もすぐにしました。

その他にも、呼吸が止まり、呼吸が止まっているはずなのに全く苦しくないという経験や、真冬の暖房のない部屋で、ほとんど裸同然で瞑想しているのに全く寒さを感じないというような経験もしました。

しかし、そうした経験はその頃だけのことで、今は全くしていません。

なぜなら、そういう経験を 「私はいりません」 とサイババに祈って、なくしてもらったからです。
なので、今はそうした神秘体験は一切していません。瞑想中に自覚できないほど呼吸が微かになるというのは、今でもありますが、夏は暑く、冬は寒いといった普通の状態の中で、一日2時間半程度蓮華座を組んで目を閉じたまま静かに座っているだけです。

なぜそう祈ったかというと、そういう神秘体験が危険なことであるという知識はなかったものの、それを体験した直後から、本能的に 「これは違う!」 という思いがしたからです。
こうした体験が続けば、自分は『前世と同じ過ちに陥ってしまう!』という本能的な直感です。
 

こういうことを話すと「それはもったいないことをした」「それは間違っている」というようなことを言う人もいますが、私に言わせればそれは違います。

私には 「そ自分の選択は正しかった!」 という確信があります。

なぜなら、瞑想の中での神秘体験が消え去ったのと入れ替わるように、私の人生は 「サイババは偏在である」 ということを実感させる、サイババの奇跡や導きで満ち溢れていったからです。

そして、後で知ったことなのですが、サイババの教えには、私の考えが正しかったことを担保する教えがあるからです。

 

瞑想で経験する神秘体験については、多くの人が勘違いしているので、以下にサイババのそれらに対する警告を紹介しておきます。

 

瞑想に対するバクタの質問と、サイババの答え。

         ↓

バクタ「瞑想中にさまざまな物が見えるという人たちがいます。様々な物音が聞こえるという人たちがいます。それは進歩なのでしょうか?」

サイババ「それは迷いである。それによって進歩は妨げられる。それによってうぬぼれの気持ちが生まれ、心が散逸して絶対集中が出来ない。ものが見え聞こえることは瞑想が深まったしるしではない」

バクタ「では、そのようなものが見えたとき、どのように対処すればいいのでしょうか?」

サイババ「それらによって心が彷徨うことを許してはいけない。あなたが自分自身で心に描いたバガヴァンの御影から目を離さないこと。瞑想中に何かが見えるという現象は、神の御影から注意をそらしてやろうという妨げであると、しっかりと心に刻み込みなさい。見えるもの、聞こえる物音をほしいままに跳梁させておくと、神の御影はぼんやりかすみ、アハンカラ(自己存在意識)が増大し、あなたは瞑想の道からそれてしまう」

バクタ「瞑想の間に何も見えず、何も聞こえず、光も見ないときは、瞑想が進歩していないのだという人があります。そのような人たちは間違っているのだと仰るのですね」

サイババ「そのようなことは、彼らが自分で作り上げた迷妄なのだ。たぶん彼らは、そのようなものを見たり、聴いたりしたいために瞑想しているのだろう。だからそのような体験をするのだ」

 


私が求めていたのは、今も昔も、そうした神秘体験でもなければ超自然的な力でもなく、あくまで 《真理》 であり 《サイババの真実》 だけです。

私はそうした生活の中で 「二度と世俗の社会には戻りたくない」 と思うようになっていました。
しかしそうできる可能性はほとんどありませんでした。お金の問題です。その時3年くらいはそうした生活を続けていけるだけの貯金はあったものの、それ以降を生きていく金はありませんでした。

そのため、私はその時本気で、この先完全に生活の資金が尽きたら、誰にも迷惑のかららないような山奥にでも行って、瞑想しながら死を待とうかと考えていました。


そうすれば、最後の瞬間に、サイババが何らかの形で、ビジョンとして姿を現してくださるような気がしたからです。

はたから見れば、完全に常軌を逸したやばい人の考えですが、この頃の私は、かなり本気でそう思っていました。(^^)/~~

 

「神の目から見て、私が生かしておく価値のある人間ならサイババが面倒をみて生かしてくれるはずだし、もしサイババが面倒を見てくれないのなら、行き付価値がないということなので、それ以上生きていたくはない」

そう思っていました。

 

このことを、サイセンターの役員になった後、インドでサイセンターの古参のアクティブワーカーと一緒にいるときに話したら、「あんたは最低の帰依者だ」とぼろ糞に批判されましたが(それが非常に健全で、まっとうな意見であることは認めます(#^.^#))、私という人間はそういう生き方しかできない人間だったので、その後もずっとそう考えながら生きていました。

 

…で、どうなったかというと、それ以降もずっとその祈りが叶えられたかような人生を過ごし続けることが出来ています。

 

問題は、なぜ私がその後の人生を30年以上もずっと無職のまま、宝くじやギャンブルに当たったわけでもないのに生きていられるのかということになると思いますが(年金をもらえる年にはとっくになっていますが、今のところ年金なしでも生きていけてるのでまだ受け取っていません)、それについては私が言うべきことではなく、皆さんに判断していただくべきことだという気がするので、以下のことを読んで判断してください。

 

私はサイババに帰依して以来、何故かは言明できませんが、一度もお金に困ったことがありません。

それが何故かというと、その現象が起こっている最も根幹となっている部分にある理由はよくわかりませんが、サイババに帰依して以降、私の銀行口座には、常にある一定のお金が残高として有り続けているからです。

しかもそのお金は、他の人から見れば、私が受け取ることが当然の権利として、他の信託銀行などから振り込まれているのです。それがあたり前のことでないことを知っているのは私だけです。なぜなら、そんなことはサイババに帰依する前は一度も起こったことがないからです。

 

そうしたお金の出どころの一つには、母がバブルの頃、私を受取人として積み立てていた高利回りの金融商品由来のものがありました。その商品は利回りは高いが元本は保証されない種類のもので、母が生きていた時、その商品を売り出していた海外の金融機関が破産して、支払い不能となっていた物でした。当然元本も消えていたものです。

しかし、あるときから、分割で、私の口座に、契約したときの金利よりも下がってはいたものの、元本+利息を付けて支払われ始めたのです。

 

また別のケースでは、父が晩年、、定期預金はすべて解約して株に投資したと言っていて、私は株には関わりたくなかったので株は弟にすべて遺産とし、普通預金を遺産として引き出す手続き気をしていたところ、郵便貯金の普通預金には数千円しか残高がなかったので、これは手続して引き出す意味がないので、このまま通帳を捨ててしまおうと思ったのですが、通帳の記録をよく見たら「借入金(正確な文言は覚えていません)」的な記述があったので、何か支払うべきお金を支払っていないのかと思い、郵便局に出向いて「この借入金とは何なのでしょうか?もし支払うべきお金があるということなら支払っておきたいのですが」と相談したら「いえいえ、それは、自分の定期預金から借りて使ったお金があるということなので、つまり定期預金があるということです」ということになり、無いと思っていた定期預金が遺産として出てきたということもあったりました。

こんな感じで、なんだかよくわからないが、どこからともなく、私が受け取っていい金が必要な分だけ次々と出てくるので、結果的に金に困ったことがないのです。

 

また、家をリフォームするときも、車を買うときも、値引き交渉というものを私は一度のしたことがないのですが、私が何も言わなくても業者の方で、どんどん値引きをしてくれたし、皆良心的な仕事をしてくれて何一つ問題が発生しなかったということや、…飛行機のチケットを格安のバーゲンチケットで買っていて、当日渋滞に巻き込まれて搭乗時間に間に合わなかった時、普通であれば新たに正規の料金を出して次の便のチケットを買わなければならないはずなのに、なぜか「いつもならそうなのですが、今回は特別に、無料で次の便の席を用意できます」と言われたりするようなことが、一度だけでなく何度も起こったりしているということもあります。

つまり、なんかいろんな意味で、私にとって優しい世界になっているのです。

 

これがサイババの恩寵であると証明することはできませんが、そうでないと考えることもできない。

ちなみに私はこのことを、今まで誰にも話したことはありません。

どれだけサイババのアシュラムに通いつめ、サイババのインタービューを受け、サイババの奇跡を体験した人であっても、おそらく私が体験してきたことは信じられない(もしくは理解できない)と思うからです。

私に話して得することは何もないし、話を聞いた人も、それがサイババの帰依者であれば変な誤解をして道を誤る可能性があるので、誰にも話してきませんでした。

ではなぜ今回そのことを書いているかというと、読者がサイババの帰依者でなく、誰も信じないだろうと思っているからです。

 

 

私にはサイババを知る以前、普通の社会生活が不可能に感じるくらいに悪化していた病がありました。しかし、その病もサイババを知った後、いつ治ったのかもわからないほど自然に治っています。

もし治っていなければインドへ行くことはできていません。

 

私の住んでいる町が全国ニュースで取り上げられるほどの水害に二度被災した時も、震度7を記録する地震が17キロほどしか離れていない震源地で発生し、その後も余震が絶え間なく続いていたため、周りの人たちのほとんどが何か月も車中泊していた時も、私だけは自宅で普通に暮らしを続けることが出来ていたというようなことも起こっています。

 

樹齢百年以上の柿の木から落ちても怪我をせず、脚立から落ちても怪我をしなかったということもあります。どちらも柿の実を武田切狭を手にして撮ろうとしていた時の出来事です。

熊本地震の時には、奇跡という以外に、何をどう考えても物理的に説明できない不思議な体験もしています。(詳しいことはここでは割愛します)

 

ここに書いたことはあくまで全体の一部であり、書いたことも書いていないことも、すべての出来事には意味があり、伏線があり、ドラマがあったことです。

 

 

 

私はサイババを知って以来、(心の奥底にある本心の部分では)サイババへの帰依心、信仰心、・・・それを何と呼んでもいいのですが、サイババを信じ、愛し、求める心以外、欲しいとは思っていません。

富も、地位も、名声も、・・・正直なところ、明日を生きる命さえ欲しいとは思っていません。

逆に言えば、それを「欲しい」と思っているということは、私はまだそれを手に入れてていないことを意味しています。

つまり私は 《自称》 という代名詞の付く偽物の帰依者であって、まだ真の帰依者にはなれていないということです。
そう「なりたい」と夢見ていますが 「どうすればそうなれるのかが、まだわかっていない」というのが正直なところです。

しかし、だからと言って、それを悲観しているわけではありません。

なぜなら、この世にどれほど多くの、サイババの帰依者を自認する人たちが在しているかは知りませんが、その中に誰一人としてサイババから合格点を与えられる「真の帰依者」は存在していないことを知っているからです。

それは、サイババ様ご自身が繰り返し、自分を取り巻く人々に向かって仰ってこられたことです。
それはこの《現代》という時代に生まれた私たちの背負った業であり…《カリユガ》という時代に生まれた人間の宿命でもあります。

カリユガとは、人類が経験する神に与えられた四つの時代の中で、人の心が悪と不正に蝕まれていき、最悪となる四番目の時代(末世)のことで、ヒンドゥ教の暦によれば現代のことになります。

この時代には、実に多くの人たちが秘かに 「この世の悪人を一人残らず滅ぼしてください!」 と神に祈ります。
「そうすれば、この世界はもっと平和で住みやすくなります」 

しかしそう祈る人々に、サイババはこう答えてきました。
「神が本当にその祈りを聞き入れたならば、果たして、あなたは生き残れるだろうか? と。

サイババは言います。
「このカリユガの時代、人の心はたった一人の例外もなく悪に蝕まれていて、神の目から見て善人と呼べるような人間はただの一人も存在してない。もし神が、悪人のすべてを裁こうと決意したならば、生き残ることの出来る人間は一人も存在しないことになる」 

サイババも、ヒンドゥ教の聖典であるヴェーダやヴェーダーンタも、それぞれのユガ(時代)の節目節目に、善人を救い悪人を滅ぼすために、神はそれぞれの時代に相応しい肉体と名前を纏って神の化身として降臨してきたと証言しています。

しかしそれは、善人が存在していた時代だけに可能だったことです。

人類のすべてが悪に蝕まれ、善人が一人も存在しない今、もし神が悪人を根こそぎに滅ぼそうとしたなら、生き残れる人間は存在しなくなります。

では、カリユガであるこの時代に、神は何のために降臨したかというと、サイババは 「すべての悪人を滅ぼすためではなく、すべての悪人を正すためである」 と答えています。

何のために正すのかというと、善人になるチャンスを与えるためです。なぜ善人になるチャンスを与えるのかというと、そうすることで神に救済される資格を得ることができるからです。

 

「あなたが今どのような人であったとしても、神の救済の対象から漏れているわけではない。あなたにもし真心から神の声を聞く用意があるのであれば、神はあなたに救済の手を差し伸べる」

これがサイババのメッセージであり、ヴェーダやヴェーダーンタの教えです。

 

しかし、サイババに帰依したからと言って、誰もが同じように救済されるわけではありません。

それぞれの人たちがどのようにして救済されていくかは、すべての人が忘れ去っている前世と今生において「どのような生き方をしてきたか」が大きく関係してきます。


なぜなら、人が「何を思い」「何を言い」「何をした」としても、神はその人を救済しようとするだけで、裁くことも、滅ぼすことはありませんが、カルマの法則という神の法によってその人は裁かれることになるからです。

人を裁くのが人や人の法であれば、逃げ切ることは可能かもしれませんが、神の法である場合、それは不可能です。

なぜなら、神の法は、輪廻転生によって生まれ変わる人生のどこまででも人を追いかけて、その報いを受けさせるからです。
しかもその場合、その人の罪は、逃げれば逃げるほどに重くなり、裁きはより過酷なものになっていくことになります。
つまり、神の法の前には、罪を犯した人間に 『逃げ得!』 というものは存在しないのです。

「天網恢恢疎にして漏らさず」
という老子の言葉は、実を言うとこの世的な《法》や《裁き》のことを言っているのではなく、そうしたものを超越したところから森羅万象を支配している天の《法》や《裁き》のことを言っているのです。
(老子の残した言葉は、すべてを総合的に判断する限り、その影響を受けた荘子などとは比べ物にならないほどに、真の悟りに達した人の言葉であり、基本的にヴェーダやヴェーダーンタと同じことを教えています。したがってこの言葉を、荘子や孔子などと同じような、この世的な道徳や思想を説いていると捉えると大きな過ちをおかすことになります)

神はすべての人々に等しく救いの手を差し伸べます。

しかし、そのことによって救われるのは、神を受け入れ、神の教えを実践することで自分を正すことが出来る人だけです。

すべての人には、神の存在を信じる自由と信じない自由、神の教えを受け入れる自由と拒否する自由が与えられています。

人が神を拒否したとしても神が失うものはなく、すべての人たちが神のを受け入れたとしても神が得るものは何もありません。

神は完全無欠であり、不足しているものは何もありません。

つまり、神は与えるだけの存在であり、受け取るものは何一つない存在なのです。

失うものと得るもののすべては、完全無欠の神の側にあるのではなく、不完全な人の側にあるだけです。

少なくとも、これが私が学んできた、サイババの教えであり、ヴェーダやヴェーダーンタの教えです。


 

長い記事になりましたが、以下に、初めてサイババのアシュラムを訪問したときの体験を、その頃ペルーで円心空手の道場を開いていた弟に書いて送った手紙から一部抜粋してこの記事を終わることにします。

 

私は、自分がサイババのことを知ったのはサイババのことをテレビが取り上げるようになった1994年以降だと思っていたのですが、それは私の勘違いだったらしく、弟によると、それより5年以上前に、弟がペルーから一時帰国したとき「インドにサイババという凄い聖者がいるらしいのだけど」と私にサイババのことを教えていたらしいのです。ただ、その時の私はまったく興味を示さなかったと言っていました。

 

弟も家族と一緒にサイババのアシュラムに行ったことがあり、弟はその時、アシュラムに併設されているサイババの学校の先生に「学生に空手を教えてもらえないか」と打診されています。しかしその時弟は腰を痛めていたため、断っています。

 

1990年 弟へ宛てた手紙。

   ↓

『実を言うと、今回初めてサイババのアシュラムを訪れる私には幾つかの不安があった。その一つは、サイババという人間の姿を目の当たりにした時、彼がアヴァターであるというそれまで培っていた確信が逆に揺らいでしまうのではないかということだった。

そしてそれは、インドに到着した当日夕方のダルシャンにおいて現実のものとなった。

その時、二日間で四十分ほどの睡眠しかとっていなかった私には、サイババの姿を実際に目にしても、何一つ五感を超えた体験はおとずれず「やはり自分はサイババに導かれてここにやってきたのではなく、間違ってやってきてしまったのではないのか」「本当は来るべき人間ではなかったのではないのか」というかすかな後悔が襲ってきた。

その思いは、五時間の睡眠をとって参加した翌朝のダルシャンまで続いた。

 

ダルシャンの後、仏教国の帰依者たちは、その日がブッダプールにマという仏教徒のお祭りの日だったので別の会場で特別のダルシャンが与えられ、私はそこで初めて、サイババが私を落胆させるためにこの場に連れて来たのではないことを思い知らされた。

私はそこで突然サイババの限りない慈愛に包み込まれ、わけがわからないまま、嗚咽を押し殺すのが困難なほど涙があふれてきて、ただただ涙を流し続けていた。その涙の中で強く感じていたのは「お前は救われたのだ!」というサイババのメッセージだった。

その体験はやがて来た時と同じな時唐突さで去っていき、愚かな私の心は時間が経つとともに、「あの体験は単なる幻覚だったのではないだろうか」という疑いの中で揺らぎ始めた。

しかしそうでなかったことを教えるように、その後のダルシャンでも、その体験は何度も何度も繰り返しやってきて慈愛に包み込んだ後、涙を流させて去っていった。

 

帰国のためのバスがアシュラムを後にしようとしていた時、バスの中に「スワミがいらっしゃった!」というざわめきが起こり、一瞬の間をおいて、センターラインの無い対向車線を、複数の帰依者に伴走されたサイババを乗せた車が、窓の外を幻影のように通り過ぎていった。

それはまるで、「人は、神に見捨てられたと言うが、神が人を見捨てたことはない。いつのときも、人が神を見捨てるだけである」というサイババのメッセージであるかのようだった」

 

 

みんな幸せになりますように。

サイラム<(_ _)>