歌や小説には、夢で耐え難いほど悲しい出来事を経験して泣き崩れ、そのショックで夢から目覚めると自分が実際に泣いていて、枕が涙で濡れていたという情景を描写したものが少なからず存在しています。
しかし、こうしたことを実際に経験している人はどのくらいいるのでしょうか?
私自身で言えば、夢の中で耐え難い悲しみを体験して泣いた経験はありませんが、あまりにも神秘的な体験をし、その衝撃と感動で涙があふれだして止まらなくなり、気が付くと現実の世界に目覚めていて、目覚めた後も夢の中で体験した神秘の余韻が消えなかったため感情をコントロールできず、そのまましばらく泣き続けたという経験があります。
しかもそれは1度や2度のことではなく、ある一定期間(三十年以上前のことなのではっきりとは覚えていませんが、多分一か月以上)、毎日のように続きました。
そのとき、私はまだサイババを知りませんでした。
「理性の揺らぎ」はすでに出版されていましたが、まだ全く売れておらず、マスコミもまだ取り上げていなかったからです。
私がその夢で体験したことは、…現実に存在するはずのない不思議な生物と出会い、その何かによって宇宙空間へと連れ出され、そこに待っていたさらなる神秘(それは物理的な姿形を持っておらず、神秘としての圧倒的な実体だけを持ったもの)に抱かれ、宇宙全体を俯瞰して見せられながら、私が幼いころからずっと探し求め、知ることは不可能とあきらめていたものの、神秘というものに姿を変えて開示された答えです。
それは『神』という概念は身にまとっていませんでしたが、私に、この世に生まれてくるときに忘れてしまっていた自分の素性を思い出させ、宇宙は何のために存在し、すべての生物は何のために生まれ、生きて、死んでいくのかを、人知の及ばない超自然的なビジョンを通して悟らせようとしているかのように感じさせるものでした。
そしてそれから7年ほど過ぎたとき、わたしはその時と本質においてまったく同じ超自然的な体験を、今後は現実の世界ですることになりました。
それも、1度や2度のことではなく、寄せては返す波の満ち引きのように、絶え間なく来ては去っていくものとして、毎日のように、サイババのアシュラムで…。
しかし、この体験のことを他の人に話したことはありません。
なぜ話さなかったかというと、人知を超えた体験を、人知の道具である言葉によって伝えることは、原理的に不可能だからです。
なので、ここでもそれには触れずに先に進んで行くことにします。
そのとき一か月以上続いていた夢は、ある日、不死鳥のような巨大な鳥の背中に乗ったまま、その鳥が口から吐く火で眼下の世界が焼き尽くされていく様を見せつけられたのを最後に終わり、二度と見ることはありませんでした。
そして、その鳥が焼き尽くしていたのは世界そのものではなく、世界に生きる私たち人類が積み重ねてきた罪だったことが後にわかりました。
私はその鳥を不死鳥だと思っていましたが、不死鳥とは明らかに違う違和感もあり、まったく違う神話上の鳥だったような気もしましたが、私の知識の中には存在していなかったので、その鳥が何だったのかは謎のままでした。
私がインド神話の中に、その鳥と極めてよく似た鳥が存在することを知ったのは、サイババを知り、インド神話にも興味を持って調べるようになってからです。
夢で見た鳥に最も似ていたのは、『ガルダ』という天界の鳥でした。
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(ガルダはわが国では、迦楼羅もしくは金翅鳥の名で知られていて、仏教を守護する天龍八部衆の一つとされています)
インド神話には、ガルダを乗り物とするビシュヌ神が悠久の古から今までに何度も繰り返し人類を救済するために化身していて、カリユガと呼ばれる世界が悪と不正と争いに包まれる現代にもカルキアヴァターとして化身することが予言されていました。
そして、そのカルキアヴァターこそがサイババではないかと考えられていたこともその時知りました。
私が前述している夢の中の体験によって教えられた『幼いころからずっと探し求め、知ることは不可能とあきらめていたもの』とは「自分がこの世に生まれ、生き、死んでいくことには、何の意味があるのか」ということです。
私たちは、ある日気が付くとこの世に生まれていただけで、 自分という《存在》 、自分の《命》 《知性》 《心》 《肉体》 《運命》といったものを自分の意志や努力によって手に入れて生まれてきたわけではありません。
私たちはそれを、自分の意志とは無関係に、宇宙を生み、維持し、運営している力によって一方的に与えられて生み落とされただけです。
そうして生み落された私たちは、寿命として与えられたいくばくかの年月を生き、そして死んでいこうとしています。
しかし私たちは 「それがいったいなぜなのか?」 を知りません。
それが 「いったい何の意味を持っているのか?」 をを知りません。
この世には、無数の生物がいます。
そうしたすべての生物に用意された環境や経験するドラマ、人生は無数にありますが、たどり着けるゴールはたった一つしか用意されていません。
それは、自分が生まれ、存在していたという事実そのものを 《無》 にしてしまう『死』です。
それは言い換えれば 「私たちに与えられた人生というものは、生まれた瞬間から始まっている、死への行進だ」 ということです。
生まれた瞬間から、たどり着けるゴールは《死》以外に存在しないというのに、死ぬ瞬間までその人生を必至で生き抜き、そして死んでいくことに 「いったい何の意味があるのか?」 ということが、ある時期を境に、私に重くのしかかってきました。
そして次第に私は「その答えがわからない限り、この先自分はどのように生き、どのように社会の中で働き、人と関わり、死と向かい合っていけばいいのかが全く分からない」 という苦悩の中へと追い込まれて行きました。
日々の喧騒の中で、自分の精神だけが、足下に広がる虚無の暗闇の中へと落ちていくような、どこにも救いのない苦悩です。
「なぜ宇宙は存在し、なぜ我々は存在しているのか?」
「私たちを生み落したのがこの宇宙だと言うのなら、この宇宙は何によって生み落されたのか?」
「私たちが 『存在』 と呼んでいるものは 、どこからやってきたのか?」
「・・・《神》 とは何なのか?」
「それは実在するのか? それともしないのか?」
私が知りたかったのは、そうしたものの答えです。
しかしそれは、私が知る限り、この世のどんな学問の世界にも、思想や哲学の世界にも、宗教的世界の中にも存在していませんでした。
もしそれが知れるのであれば、私は何も、・・・はっきり言えば、命さえもいらないと思っていました。
なぜなら、命というものは、遅かれ早かれ、いずれは消えゆくものだからです。
そんなものに百年しがみついて生きるより、明日終わってもいいから、私が欲しかったのは、そうしたものの答えを知ることでした。
私にとってサイババとは、一瞬にして、その願を叶えてくれた存在でした。
私はこれまで、サイババのアシュラムには、17回ほど行っています。
一回の渡印でサイババのアシュラムの中で生活していたのは、短くて一週間、長い時だと40日程度だったので、合計すると260日ほどになると思います。
そうした日々の中で、様々な(自分の中では奇跡としか言えないような)体験をしていますが、そのほとんどは他の人の目には見えない内面的、示唆的、あるいは霊的なもので、物質化と言われるようなものは一度も(手の届くような至近距離では)見たことがないし、インタビューも受けたことがありません。
しかし、それを残念に思う気持ちもありません。
なぜなら、私には元々、そうしたものを望む気持ちも、そうしたことを体験した人たちを『うらやましい』と思う気持ちもなかったからです。
それがなぜかと言うと、物質化と言われる奇跡については 「私はそんなものは見たくありません。だから私には見せないでください!」 と私がインドに行くまえにあらかじめサイババに祈り、願っていたことであり、そうした奇跡現象というものは、サイババが誰であるかを理解できていない人々に与える名刺であって、すでにそれを知っている自分には「必要ないこと」だと思っていたからです。
そうした現象を見せつけられれば、興味のなかった人間でも、心惹かれ、必ず興味を持ち始めます。
そして私には、そうした奇跡への興味は、自分の霊的進歩には必ず害を及ぼすであろうことが(前世で陥った過ちの記憶のようにして)わかっていました。
だからこそ、そうしたものにかかわることは避けたかったのです。
私が欲しかったのは、そんなものではなく、あくまでも『真理』でした。
ババはその願を叶えてくださり、私の目の前でペンダントを物質化された時も、強度の近視である私がメガネをはずさなければならないような状況を事前に作り出しておいてくださったので(その時私は、急きょサイババの前で披露される劇の中で、サイババの降臨に立ち会うブラフマ神の役をするように仰せつかり、多くの観客を前にした舞台に、神様役なので眼鏡をはずしてたっていたので)私はそれを見ずにいられました。
インタビューもまた、多くの人が望みますが、私は望んでいませんでした。
なぜなら、サイババに聞きたいことは何もなかったからです。
私が欲しかったのは、あくまでも、自分をサイババの帰依者として真に相応しい人間に作り変えてもらうことであり 「自分が誰なのか?」を真に悟るための『真理』でした。
サイババに10年以上もかかわっていれば、サイババのインタビューを受けたり、物質化などの様々な奇跡を体験したり、側近と言われるような立場で深くかかわってきた世界中の人たちとも知り合います。
そうした人々を見て分かったのは、そうした人々の中に、いかにサイババの真実を (あるレベル以上に) 理解している人が少ないかということであり、私が欲しいと望んでいるものを手に入れている人がいかに少ないかということです。
そして、そうした人々に限って、そうした体験に過大すぎる価値を見出し、真実を見失っていたりしました。
そうした人々を目にするたびに私が思ったのは 「そんな体験なら、私はいらない!」 ということです。
もっとも、「私もそうした体験をしてみたい!」 と渇望するような体験もありますが、それは極めてまれであって、日本人が体験したものの中には存在しません。
多くの場合、人がサイババから与えられている奇跡というものは、唯物論の中にとどまっている人々の固定観念を打ち砕き、この世の真実が唯物論の中には存在しないことを悟らせ、より深遠な真実の探求に導くためのものであって、すでにその探求の道を歩き始めている人間には必要のないものです。
少なくとも、それが私の考えであり、確信でした。
(サイババが起こして見せる様々な奇跡と呼ばれるものは、サイババの真の実体に隠されているものの価値からすれば取るに足りないような、些細なものであり、それに目を奪われすぎるべきでも、重きを置くべきでもない、ということはサイババご自身が常に仰っていることであり、サイババの教えの根幹をなすものです。
しかし、それでもなお、それを実際に体験した人々には圧倒的なものとして映り、心を惑わします。
そのため、もっとも古くからの信者で、何十年もの間アシュラムにサイババとの個人的な関係を持ちながら暮らしている人々の中にも、灯台下暗しのようにして、物理的に遠く離れ接触を持たずにく暮している信者より、サイババの真の本質や価値を見失っている人々が多くいることをサイババは警告されています)
したがって、私は 「そうしたものを望む自分ではありたくない」 と思って、それを拒否していたのです。
しかし、それでもなお、私が望む望まににかかわらず、私もまた、サイババによって多くの奇跡体験が与えられてきました。
他の人たちが経験してきたものとは、全く違った形で・・・。
そうしたことにつて少しづつ書いてみようと思って書き始めた記事ですが、正直なところ、今のところはまだ書ける気はまったくしていません。
たぶんそれは、もう一度昔の記憶を呼び起こしながら、昔読んだ膨大なサイババ様のご講話も読み直した上で、改めて電子書籍の原稿として書いてみるべきもののような気がしています。
ただ、サイババ様について書いたものは、過去の別アカウントブログに相当数存在しているので、それを読み直し、改稿したものを、今後順次アップしていこうと思っているので、お付き合いいただければ幸いです。
この動画は多分SSOJ公式のもので、非常に古い映像によって構成されていますが、BGMとして流されているバジャン(神にささげる歌)は、すべての動画の中で私が最も好きなものです。
これもよろしく。
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今回の記事は以上です。
みんな幸せになりますように。
サイラム<(_ _)>

