月刊PLAYBOY 1989-11 矢沢永吉 vol.7 寂しい電波 | 矢沢永吉激論ブログ

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闘争本能


PB 81年に、矢沢さんは突然アメリカへ渡りましたよね。あのときがそのターニングポイントだったわけですか。


矢沢 もうぼく自身、やめるか、やるかだったからね。熱くなれなかったんですよ。もう矢沢ファミリーでやっても熱くない。


マネージャーからは寂しい電波しか出てこない。後楽園球場も全部やった。でも、あれを終わったとき、なんにもやる気がしなかった。


自問自答したね。どうするんだ、これからもっと走るのか。それとも、もっと知らない世界にチャレンジしていくのかって。


でもそのときは、もういいから、いまはとりあえず日本を出たいと思った。そりゃディールはあったよ、でもなにもアメリカへ行って世界発売しようとかそんなもの二の次や。もうね、苦しかったんだよ。


虚像とのギャップとか、オレは人間なんだぞという気持ちとか、すべてが積もり積もったんだね。そこからもう自己革命がはじまっていたしね。


PB 持ちきれなくなって日本を逃げ出したということですか。


矢沢 ぼくには必要だったんだ。矢沢永吉なる患者はすごく静養を必要としている重症患者だったと思うな。


静養でもいろいろなやり方があってさ、ただ休み時間だけ与えたら静養だと勘違いしているプロダクションがあるみたいだけど、そんなのウソだよね。


それから後に、マネージャーが出していた寂しい電波の一件が発覚するんだな。ある地方のイベントメーカーから一通の手紙が届いた。