月刊PLAYBOY 1989-11 矢沢永吉 vol.2 | 矢沢永吉激論ブログ

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PB すでにキャデラックもベンツも家も金も持った。スーパースターというタイトルも得た。欲しいと思っていたものが全部手に入ったわけですよね。それでも血ヘドを吐いていた。いったい何があったんですか?


矢沢 ぼくはあのとき、えらい速度で、えらいパワーで虚像というものにぶち当たったんだね。いろいろ有名とかいう立場の人がいてさ、それを逆手にとれる人もいれば、なにも痛くもかゆくもなくて、けっこう心地よく感じてる人もいる。


逆に、それが実像とあまりにも違うってことで、逆行してものすごく苦しむ人もいるわけだよ。ぼくは後者のほうだったのね。そこらへんで、ぼく、自分の運命みたいなもので、えらい矛盾点がボロボロ出てきた。


PB 具体的には、どのへんからですか。虚像とのギャップに苦しみはじめたのは。


矢沢 順を追って話しましょうか。最初は、やっぱり山中湖の家だったね。男がさ、初めて家を建てられるぐらいの男になったわけよ、27歳ぐらいで。


まあ、若造だよね。男は夢を描いたわけ。この芸能界で金を稼いで、それで家を建てようと。当然でしょう、お金なんてさ、人を殺して得たものじゃない限りはみな、汗で稼いだと思ったら、稼いだものは変わらないと思うからね。


 だから27歳でぼくは夢を見たよ。男一代、最初の家を造ってやろうって。富士山が見えて、湖がある山中湖の静かなところで、緑があるところで子供を育てよう。


そこにスタジオもつくって、オレは音楽性をもっと広げようと。ところが、ふつうの一般的な家庭をつくるつもりでいたのが、その山中湖の家にファンやマスコミが土足でドカドカと殺到して、落ち着く間もなく夜逃げ同然で引き払った。          ]


 まあいまから思えば、世間知らずもはなはだしい矢沢永吉だったんだね。1日80人から100人が家の前に押し寄せてきてさ。うちの家族にパニックは起きる。


本当に女房もノイローゼになってやばくなった。オレはあのころ思ったね。オレひとりだったらねって。女房、子供を狙われたらひとたまりもないよね。


 ところが、後で気づいたよ。「そのお金をお前、何で得たのか」っていうことを。神様がオレにクエスチョンしたわけよ。


そのお金は額に汗して稼いだものじゃない。芸能界で稼いだお金だったって。殺人を犯して得た金と同じようなものじゃないかってね。そのぐらいの懺悔があったと思う。


PB サクセスしてみたら、マスコミが土足で家の中に入ってきて、人間・矢沢永吉を踏みにじったわけだ。


矢沢 芸能界、マスコミ、あの連中たちがみたら、そんなこと、矢沢さん考えすぎじゃないですかと言うかもしれませんよ。


でもね、おどれらがどれだけのことをうちの家族にしたんだっていうことは、オレは言いたいよ。だけど、あのクソどもはさ、うちの家族が本当にヤバクなったら一抜けたって、みんな潮が引くぐらいの早さでサッといなくなったよ。これがマスコミよ。ザ・芸能界よ。


 いまはマスコミのことを自分も言わなくなったけど、あのころはピークだったね。本当に矢沢がプッツンいったら、日本刀持って行ってやろうかという気はあったよ。たけしみたいに仲間を連れて消火器持って投げるとか面倒くさいのをやめて、日本刀で行っちゃうみたいな。