1982年のインタビューから見る矢沢永吉の進歩 | 矢沢永吉激論ブログ

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1982 ベストヒットUASA 矢沢永吉インタビュー


矢沢永吉がベストヒットUSAで小林克也のインタビューを受けていたのは1982年。


ワーナーに移籍してアメリカに行って向こうの連中と付き合い始めていろいろ分かってきたと言ってた頃です。


向こうに行ってロックで食っていくと言うのは仕事であり日常であり社会で暮らしてく一部なんだって分かったと言ってる。


ロックが仕事でもユニオンに入り、年金に加入して税金を払う。家族を食わせる。


今でもよくいるのが就職しなくないからロックやってるんだって話。サラリーマンなんかやってどうするんだと。大企業に入って給料もらって飼いならされてそれでもお前は男かと。


矢沢永吉は成りあがりの頃からそういう発想ではない。会社に就職するのが嫌だからというレベルでは見てない。


まずビートルズを見てロックで成功するにはどうするのか。その前にロックで食っていけるのか。この業界のシステムはどうなってるのか。どういうスタンスならロックで食っていけるのかを最初から考えてた。


80年代、ワーナーに移籍してアメリカに行った。向こうの世界を見た。しかし、その矢沢でさえ、ワーナーとの契約はおかしいと気がつく。

ワーナーをやめて東芝に行ってからは世界発売を謳い文句にはしなくなった。しかし日本のマーケットを固めてツアーを自主興行でやる体制を固めた。


世界発売もいいが、今できることを固めるのも必要だと考えたんだと思う。


若いミュージシャンが夢を追うために音楽やるんだってよく言う。矢沢永吉が言うならアメリカで成功するまでは日本に帰らないってことなのかも知れない。

でもそれはしなかった。


いま、自分についている客を大事にして音楽とステージを提供する。チャレンジはやめたわけではないが置いとく。


東芝に移籍した時点で発想を切り替えた。ノウハウを蓄積した時点でインディーズになった。もっと自由にできるんじゃないかと考えた。


現在の矢沢は大手のメーカーに所属しなくても興行会社に委託しなくても個人商店で日産スタジアム65000人埋めちゃう。ツアーもやる。ヤーさんにピンハネされないから利益率も高い

何もないところからここまで来るのに40年かかってる。普通だったら途中で挫折するか潰されてもおかしくない。


40年ロックやってて、音楽やっててここまで言えるやつってそんなにいないと思う。