島風 日本海軍駆逐艦
島風は日本海軍が舞鶴海軍工廠で建造した一等駆逐艦。
1941年(昭和16年)8月起工。1943年(昭和18年)5月竣工。
次世代の艦隊型駆逐艦として新型機関(公試:全力7万5890馬力)を搭載、40.9ノット(約75.6km/h)の高速を発揮し、重雷装(五連装魚雷発射管3基、15射線)を装備していた。
1943年(昭和18年)、島風は訓練部隊の第11水雷戦隊(旗艦「龍田」)に所属。
6月8日に戦艦陸奥の爆沈に遭遇した。
7月上旬よりアリューシャン諸島方面に進出し、第一水雷戦隊(司令官木村昌福少将)の指揮下で
キスカ島撤退作戦に従事。
8月より第二水雷戦隊の僚艦と共に、艦隊や船団の護衛任務に従事した。
1944年(昭和19年)6月中旬以降、大和型戦艦を護衛して渾作戦やマリアナ沖海戦に従事する。
1944年10月中旬以降、捷一号作戦にともない、第二艦隊司令長官栗田健男中将指揮下(栗田艦隊)に所属し、レイテ沖海戦に参加する。
10月24日、島風は沈没寸前の戦艦武蔵の救援を行い、同艦に収容されていた重巡洋艦摩耶(前日、米潜水艦により沈没)の生存者約600名を受け入れた。
レイテ沖海戦後、第二水雷戦隊はレイテ島への地上兵力増援作戦(多号作戦)に投入される。
第二水雷戦隊旗艦として第三次多号作戦に従事中の11月11日正午過ぎ頃、島風はオルモック湾で米軍機動部隊艦載機の攻撃を受ける。
対空戦闘に際し、島風は誘爆を防ぐため魚雷を投棄。
湾内は狭く回避は困難だったが、その速力と的確な操艦により、爆弾や魚雷の直撃を受けなかった。
しかし多数の至近弾と機銃掃射により船体に多数の小破孔が生じ浸水、機関からも蒸気漏れを起こして回転数が急速に低下し航行不能となり、午後5時30分、島風は後部附近に爆発を起こし沈没した。
(2枚目写真は艦尾が爆発を起こす直前の島風)