欅坂46「黒い羊」MV。欅坂46のシングル表題曲MVはデビュー曲「サイレントマジョリティー」から一貫して受け手側に対し演者とともに楽曲の解釈に踏み込むことを要求している。

制作者、演者側から提示される解釈はそれだけでは完成せず受け手側による解釈によって制作者、演者側すら意識していなかった新たな視点が数限りなく加えられていき娯楽作品として普遍的な価値を得る。

グループとファンとの間だけで通じる閉じた価値観(誰がセンターで誰が選抜で誰が何列目かなど)から解放されていくのだ。

 

「黒い羊」MVでは平手友梨奈演じる「僕」が目を背けたくなるような過酷な現実の中を彷徨する。

 

「僕」は同時に誰でもない誰かであり「僕」と同じように過酷な現実に囚われた者すべてでもある。

メンバーも同様に過酷な現実の中で苦しみ彷徨う「わたし=誰でもない誰か」でありそれぞれの現実という物語の主人公たちだ。

「僕」は「わたし」の人生に現れまた消えていくその他大勢の中の一人でもある。

 

欅坂46「黒い羊」MVで描かれる世界、「僕」や「わたし」が彷徨う世界は虚構であると同時にいつか誰かの身に実際に起こりうる現実の過酷な一面である。

それをどう捉えるか、アイドルMV=娯楽と割り切って消費するか作品世界に踏み込みメンバーの視点を自分のそれと重ねてあの現実の中を彷徨するのかは見る人それぞれに任されている。

優れた娯楽=エンターテインメントはただ受け手側が快楽を掠め取るように消費し尽くす消耗品(それ自体は決して悪いことではない)というだけでなく時には受け手側に何かを体験させ世界の見方を変えることもある。「黒い羊」のように。